無能酔い
概要
幸福論の根本的な考え方って(私みたいに民度の高い思考じゃない)現代人の生活にもモロ関わっているなと思って、幸福論に当てはめた私の経験をまとめました
ハプニングに純粋に立ち向かって、なんでも解決してしまう君が小学生の時から好きだった。
表情と動きが豊かで、愛らしい君
勿論、小学生の時だったとしても君が存在しているなんて信じていた訳じゃない。アニメと現実の区別はついた。
それでも、頭の中ではずっと君が生きてた。
私は妄想が激しいタイプだから、君が「いる」ことをイメージして、君をずっと愛でてた。
でも自爆した。
最近上手く絵を描けるようになりたいとずっと思っていて、クロッキーの練習をして、骨格とパースについて勉強した。
自分の表現したいことを絵に出来るようになったらさぞ楽しいだろうと思ったからだ。
何枚か練習してから、小学生の頃から好きだった君を描いた。
アニメのタッチを忠実に再現しながら、自分の考えたポーズや表情を君に当てはめた。
完璧に本家のようにバランス良くは描けなかったけれど、ある程度同じ感じにはなった。
その瞬間だけは確かに、大好きな君を操れて幸せだった。
でもその一瞬だった。
それからアニメで君を見てもただの絵にしか見えなくなった。
君を見ると描き方の手順、アニメーションの手順が頭に浮かんでくるからだ。
アンチがよくヲタクに絵じゃんって言うけど、私はそれを私自身に理解させられていた。
君って、ただの絵なんだ
もちろん私には同じものを複製出来る画力やアニメーション能力はないけれど、手順を知ってしまったのと、ある程度近いものを生み出す能力を身につけてしまったのだ。
それが私の中で君がただの絵であることを理解されられてしまって、君が「在る」ことが私の中で否定された。
この世には本家をも超えるようなクオリティのある二次創作を後悔している人が無数にいる。
その人たちはどんな気持ちで絵を描いているのだろうか。
ふんわりとした「いる」という幻想はなくて、完全にコンテンツとして楽しんでいるのだろうか。
それとも、自分の書いたその人も本家のその人も信じることが出来るのだろうか。
とにかく私には無理だった。理解してしまったことは取り返しがつかない。
今後私は君を操れるようになったことと引き換えに、このまま君をただの絵として受け入れて生きていくしかないのだ
よくよく考えると、絵だけじゃない。
私が可愛くなるのに興味を失ったのも同じだ。
TikTokで2万人くらいフォロワーがいる子(超有名な人より2万人くらいの子が1番可愛いと思ってる)、私はそのレベルの容姿はないから同じにはなれないけど、メイクとか髪型を見てある程度どんな手順を踏めばそうなれるかの予測がつく。
この前中学の最初の頃に使っていたスマホを見返したら、スクショにモデルのTwitter投稿を発見して思い出した。
私は当時この人の可愛さに感動し、「私には全くなり得ない異次元な存在」として認識していたんだ。
今見ると化粧濃いめのよくいるギャルにしか見えないし、寧ろ私なら輪郭そんなに削らないで逆に人中もっと短くするな〜とか、加工に対する好みの違いが炸裂する。
今では可愛いものに「すごい努力の結晶だ」「雰囲気が好き」ってぼーっと感じることは出来るけど、昔のような刺激のある「理解し得なくて引き込まれる異次元」ではない。
自分が(加工も含めて)可愛いを多少操れるようになったことと引き換えに、異次元の可愛さに心を打たれることは無くなった。
可愛いは研究して手にした後はただの手順になって、残ることは外に出る時「既に知っていて予想のできる」メイクをし、服を着、髪型を作り、人に好印象を与えると共に自分で納得するという作業が残る。
つまらない…
なんでも出来るとすぐにどうでも良くなって、私は何がしたかったんだろうって思う。
それがどれだけ美術的なことだとしても、結局は全部決まった手順によってできている。
ただ素晴らしい素晴らしいと酔いしれていたいのであれば手順を知らずに無能でいるしかない。
なのに私もそれをオリジナリティを持って作りたくなって、結局幻想ではないと理解させられて絶望する。
つまり「美しい幻想の異世界に酔う」と「私が操ることが出来る」の二者は原理的に共存しない。
手順を知らずにそれが幻想の完璧体だと思い込むか、手順を知って幻想ではない現実の行為のひとつとして操れるようになるか、選ばなくてはならないのだ。
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