小林秀雄(4)――「様々なる意匠」(3)

前回→https://note.com/illbouze_/n/n9b8403174f53

1 「様々なる意匠」はどうみえたか?

 小林秀雄が「様々なる批評」で批判対象としてあげたのはふたつの陣営だ。ひとつは「マルクス主義批評」。そしてもうひとつは「芸術のための芸術」を標榜する陣営。

 そのふたつの陣営は、第二回の整理でいう、理論による批評と主観・印象批評(以下ではたんに主観批評とする)の対立に重なる。「様々なる」という形容詞はついているものの、小林が文章で批判したのはこのふたつだ。

 そして、こちらもまた第二回の整理によるのだが、理論による批評と主観批評という対立をみたとき、後者、すなわち主観批評という名は、理論による批評の外部としてのみ意味をもつ。

 どのような批評も尺度を必要とする。その意味ではあらゆる批評が理論による批評である。しかし問題になるのはある理論からみたとき、別の理論による批評が主観批評と名指される、その外部化の仕組みだ。そのような外部化でもって、ある理論による批評は自身の位置を確定させる。

 小林は、いちおうマルクス主義批評と「芸術のための芸術」を主調とする陣営を対置はしている。しかし後者は前者から引きずりだされたものであって、陣営として確固としているかというと、そうでもない。

 当時、確固としてあったのはマルクス主義批評の陣営であって、なにより「様々なる意匠」が掲載された雑誌『改造』は、その本拠地のひとつだった。

 小林は単身でそこに乗りこんでいる。であるから、すさまじい戦いを挑んでいるかのようにみえるのだが、しかし小林の文章は二等とはいえ懸賞に当選している。

 であるから、その小林の批判の毒は、陣営の側からすると、見逃してもいいもの、あるいはそれを掲載することによって、逆説的に自分たちの懐の深さを証明できるものと、当時はみえたのかもしれない。

 実際、小林の批判の毒がマルクス主義批評に打撃をあたえたのかというと、そんなことはない。当時愛知県名古屋市の旧制第八高等学校に通っていた本多秋五は、当時の小林の印象について以下のように記している。

小林秀雄は、僕等の眼には「変な奴」としか映らなかった。「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事でない。批評とは竟に己れの懐疑的な夢を語る事ではないか、己れの夢を懐疑的に語る事ではないか!」(「様々なる意匠」)――おかしな言葉だった。僕等は昼休みの時間に、「あいつは、批評とは他人の作品をダシにつかつて、自分を語る仕事だといっているよ」と噂しあい、「マルクスの悟達」にいたっては、ほとんどその珍妙ぶりを憐れむかのように、表題をみただけで失笑するのだった。

本多秋五「小林秀雄論」『転向文学論 第三版』、未来社、一九七二年、一九頁

 これは当時、小林の批評がどのようにみえていたかについて考えるうえでの重要な証言である(回顧とはいえ、こんな書かれ方をして可愛そうだと思う)。

 実際当時の文壇にはさまざまな論争があふれていたのに「様々なる意匠」を中心とした論争は起きなかった。

 これまで書いてこなかったが、小林は「様々なる意匠」をはじめとする初期の時評文を、むしろ、すでにあった「形式主義論争」への介入として書いていた。

 そのルックというのが強すぎて「様々なる意匠」それ自体が含んだ毒というのは、はたからみると「変な奴」の「珍妙ぶり」としてしか受けとられなかったのだろう。

 小林がマルクス主義批評に対して行った理論的な批判は真面目に受けとられることはなかった。小林の批判はマルクス主義批評に打撃をあたえられなかった。

 しかしマルクス主義批評はそのあと壊滅した。なぜか。いや、なにがマルクス主義批評を壊滅させたのか。それは時代である。

2 マルクス主義批評的な意匠

 第一回で書いたとおり、小林の「様々なる意匠」は雑誌『改造』の昭和四年(一九二九年)九月号に掲載される。その年の十月にはアメリカ、ニューヨーク株式市場で「暗黒の木曜日」とよばれる、株式市場の大暴落が発生する。世界恐慌のはじまりである。

 恐慌の波は日本にも及び「昭和恐慌」とよばれる不況の時代がはじまる。そこから日本は、満州事変(昭和六年)、国際連盟脱退(昭和八年)、日中戦争(昭和一二年)と、急転直下の展開を迎えるのであるが、文学の世界もそれにあわせて大きく変化した。

 転換点は昭和八年(一九三三)年。菊池寛、広津和郎、川端康成の三人で雑誌『文藝春秋』誌上で開かれた「文芸復興座談会」などをみるとわかるとおり、この年から「文芸復興」という動きが日本文学界ではじまる。対して同年二月に小林多喜二は演説中に検挙され、その夜に築地署のなかで殺害される。

 プロレタリア文学の流れが後景に退き、文芸復興の流れが前景となる。その入れ替わりを象徴するように、以後「転向」という主題が文学作品のなかで疼きはじめる。

「にわかに」といいたいところなのだが、はや昭和九年には、杉山平助が「転向の流行について」や「転向作家論」を相次いで発表していることなどからみると、それはもはや明確な主題としてあったのかもしれない。

 しかし、さすがにその肌感覚は当時に生きていたわけではないからわからない。年表を読むかぎりでは、そのような感覚がえられる。

 この構造転換を政治とのかねあいでみると、文学の世界が「大正デモクラシー」の余波のなかにあった状態から、戦時下における文学という体制に切り替わったのだ、といえる。

 しかしそれを文学の世界のなかだけで考えると、つまりは作家の「食って行き方」が変わった、という問題に還元できる。

 プロレタリア文学とマルクス主義批評では食えなくなった(食えないどころか命の危険まであった)。文芸復興をうたい、転向を排撃すると食えるようになった。要はその切り替わりである。その切り替わりが作品のなかで扱われると「転向」という主題があらわれる。

 そのような時代の流れのなかでマルクス主義批評は壊滅した。しかし理論的に壊滅したのではなく、「しかたのない」時代の流れによって壊滅した、しかし、それはそれでひとつの問題となる。

 マルクス主義批評は戦間期に沈黙する。そして戦後に復活する。時代の趨勢によって沈黙した理論は、また時代の趨勢によって再生する。しかし理論的問題はなにも解消されていない。

 理論の更新が行われない。それが問題だ。ある理論が立てられ趨勢をなす。そして理論が破綻し終焉を迎える。それはきわめて健全な循環だ。しかし、日本におけるマルクス主義批評という意匠は、そのサイクルから決定的に外れてしまっている。

 であるから「マルクス主義批評的な意匠」というものは、日本における批評という表現形式に憑いた亡霊のようなものだ。それはいつでも復活する。そして復活すれば、つねに、すでに正しい理論をそなえている。

 しかし限定なき復活可能性、そして理論の正当性というものは、その理論に実体がないからこそ可能になる。時代によって理論の実体には、それぞれ別のものが充填される。

 ここで私は「実体」という言葉に、その理論が「押し通そうとしていること」という程度の意味を与えている。もうすこし通りをよくすれば「イデオロギー」となるだろう。

 イデオロギーなき思想というのは矛盾である。イデオロギーは思想であるし、思想はイデオロギーだ。そのことを私はまったく否定する気がない。なにも押し通そうとしない思想とは、虚無の代名詞である。

 しかし「マルクス主義批評的な意匠」とはイデオロギーではない。むしろあらゆるイデオロギーを充填しうる容器なのだ。

 私はスラヴォイ・ジジェクが『イデオロギーの崇高な対象』などで、実体なきイデオロギーこそが、最もイデオロギーとして機能する、と書いたことと、同じことを言おうとしている。ある見方からすれば、その容器こそが、あらゆるイデオロギーを超えたメタ・イデオロギーなのだ。

 戦後の日本の知の歴史を見渡すと、この「マルクス主義批評的な意匠」というものが、手を変え品を変え、なんどもなんども登場してくるという様子をみることができる。

 あるときはそのものずばり「マルクス主義批評」を名指され。そしてまたあるときは「フランス現代思想」という名札をかかげる。そしてまたあるときは「政治的正しさ」という名乗りをあげる。

 それらの流れに抗うものとして、ある時期からは「保守」という言葉が現われる。

 しかし、これはのちに書くように、理論による批評に対して主観批評が、マルクス主義批評に対して「芸術のための芸術」を標榜する批評がある、という小林の描いた図式を超えるものではない。

 それはある項に対する補完物としての対立物であるから、じつは似たり寄ったりのものなのだ。そう私などは考える。しかし話がそれた。

 これらに共通するのは(一)まず理論を携えて登場し(二)その理論によって眼前にひろがる諸物の裁断を試み(三)理論的な破綻ではなく、時代の流れによってその勢いをなくす、という点である。

 それぞれの実体には、それぞれの担い手の実存が深く関わっている。であるから私はひとつひとつの実体と、その実体に紐づいた主張を批判したいわけではない。私が批判したいのは、その反復の図式である。

 実体が失われても、なおなんの傷も負わずに、そしらぬ顔であるときまた登場する器のあり方、そのものを批判したいのである。

 それは小林が「様々なる意匠」の冒頭に書きつけた「言葉の魔術性」というものに対する批判だ。しかし、具体的な誰か、というわけではないから、やりきれないのである。

 またその反復の図式に対する批判というのも、また反復されていて、私もまたその渦中で書いているのだが、その堂々巡りのなかに、いつのまにか自身が飛びこんでいたという事実に気づくにあたって、そのやりきれなさはいやますのである。

 いずれにしても、小林は「様々なる意匠」において、後に連綿と続くことになる、ある形式そのものを批判の対象としていた。その当時における具体的な対応物がマルクス主義批評であった。

 であるから、その補完物としてある「芸術のための芸術」を標榜する批評の批判というのは、マルクス主義批評批判の別のバリエーションとして読まなければならない。私はそのような見立てのもとで「様々なる意匠」を読んでいる。

 そろそろ「様々なる意匠」の読解に戻ろうと思う。

 本来なら前回の続きの文章を読んでいくと、「芸術のための芸術」を標榜する批評の批判にいきあたる。

 しかし以上のような前提があるので、今回は、それを一旦飛ばして、小林がマルクス主義批評批判として何を書いているかという部分を読んでいきたい。

 それを書くために少々迂回した。読んでるみなさんを振りまわしてしまったことだろう。申し訳ない。「様々なる意匠」にもどろう。

3 マルクス主義批評批判の続き

「様々なる意匠」の三節のなかばから四節までは「芸術のための芸術」を標榜する批評の批判にあてられている。そこは次回から読んでいきたい。ここでは三節から五節にとび、小林のマルクス主義批評批判の続きを読む。

 前回読んだ箇所で、小林はマルクス主義批評の言葉のファッション性を批判していた。その言葉はひとを動かすことに寄与しない。であるからマルクス主義の理論とも矛盾している。マルクスはフォイエルバッハについてのノートのなかでこう記した。

哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきたにすぎない。重要なのは、世界を変革することである。

『マルクス・コレクションⅡ』筑摩書房、二〇〇八年、一六一頁

 それがマルクス主義の支柱である。しかし小林のみたマルクス主義批評は、その支柱をないがしろにするものにみえた。であるから小林が批判の最後に召喚する人物も、この流れからいえばただひとりであって、つまりマルクスである。

脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観における「物」とは、飄々たる精神ではないことはもちろんだが、また固定した物質でもない。認識論中への、素朴な実在論の果敢な、精密な導入による彼の唯物史観は、現代における見事な人間存在の根本的理解の形式ではあろうが、彼のごとき理解をもつ事は人々の常識生活を少しも便利にはしない。

「様々なる意匠」『新訂 小林秀雄全集 第一巻』新潮社、一九七八年、二四ー二五頁

旧仮名・旧漢字は改めた

 まず小林はマルクスの偉大を導入する。しかし「人々の常識生活」というものを立てて、それを相対化する。その相対化のテコとなるのは、その思想が人々の生活を「少しも便利にはしない」ことである。小林は思想を徹底して実践の問題として捉えている。

「実践」というのもまた使い古された言葉であるから、再導入しなければならない。思想を実践の問題として捉えるとは、すなわちその良し悪しを究極的には結果から判断すると決意することだ。小林の言葉を使えば、ある思想で「人が動いたか」で、その思想を判断するということである。

 理論の精密さや崇高さは、それだけでは評価されない。人が動いたという結果とセットにならなければ、その思想は評価されない。思想を実践の問題として捉えるとは、そのような軛を自身に課すことである。

 であるから、小林は「様々なる意匠」という文章については、それなりに思うところがあったはずだと、私は思っている。

 小林はマルクス主義批評に対する攻撃を果敢にも試みた。しかしその攻撃でマルクス主義批評が倒れることはなかった。それは時代の流れによってあっさりと眼前から消えていった。

 それは小林の文章の結果ではない。単に時代がそうなった、というだけのことだ。思想を実践の問題としてみるという視座にたったとき、「様々なる意匠」は失敗している。

 その失敗を挽回するべく、それからあともひたすら書き続けたというのが、小林の人生だったのだろうと私は思っているのだが、それはもはや「私のなかの最強の小林秀雄」といった様相を呈している。話がそれた。戻ろう。

 小林は続ける。

換言すれば常識は、マルクス的理解を自明であるという口実で巧みに回避する。あるいは飛躍して高所より見れば、大衆にとってかかる根本規定を理解するという事は、ブルジョアの生活とプロレタリアの生活とを問わず、精神の生活であると肉体の生活であるとを問わず、彼らが日々生活することにほかならないのである。現代人の意識とマルクス唯物論との不離を説くがごときは形而上学的酔狂にすぎない。現代を支配するものはマルクス唯物史観における「物」ではない、彼が明瞭に指定した商品という物である。

「様々なる意匠」『新訂 小林秀雄全集 第一巻』新潮社、一九七八年、二五頁
旧仮名・旧漢字は改めた

 ところで、おもしろい批評家のおもしろさは、まずそのひとが文章によって引く「線」にあらわれると思う。

 ここまで続けて引いた箇所で、小林は、まず唯物論と観念論とのあいだに線をひく。そのふたつを考えたうえであらわれたひととしてマルクスを登場させ、そのひとが考えた「物」というイメージを提出する。

 そしてそれを現代における人間存在の根本的理解の形式として置き、それに人々の常識生活というものを対置する。その対置にマルクスのいう「物」と「商品」とを重ねている。

 この線というのは仮想のものであるから、絵や建築図面のように、その線自体を鑑賞するものではない。その線にみるべきなのは、批評家がどのようにして理解を進めているか、そして読者に対してどのような理解を勧めようとしているのかという手つき、または戦略である。

 ひとは図式で考える。そうしたほうが考えやすいからだ。「図式化から逃れる思考」といっても、すでに図式と図式化から逃れる思考という図式のなかにおかれてしまう。その言葉がスローガン以上のものになった瞬間を、不幸にも私はまだみたことがない。

 図式化は不可避だ。あらゆる思考に図式がある。しかしひとはそれぞれ別の個体であるから、同じものをみても脳裏に描く図式は異なる。

 そしてただそれだけでおもしろい図式というのもまた存在しない。プロモーションが必要だ。なにかの思考を著した文章を読むおもしろさというのは、そのプロモーションと図式をあわせたおもしろさなのだと私は思う。

 ここで小林が引いている線とその線が形成する図式というのをあらためてまじまじとみてみよう。まず後ろから考えていく。

 小林はマルクスの「物」と「商品」という概念を対置する。しかしマルクスの「物」といわれてもなかなかピンとこない。むしろわかるのはマルクスの「商品」だ。すこし脱線するがマルクスを読もう。

3a マルクスの「商品」

 マルクスは主著である『資本論』を以下のように書きだす。

資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現われる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる。

岡崎次郎訳『資本論(1)』国民文庫、一九七二年、七一頁

『資本論』の下書きであるところの『経済学批判』も同様の書きだしからはじまるが、そのふたつで違うのは『資本論』のほうで商品についての叙述が大幅に書き増されていることだ。マルクスはその書き増しによって『資本論』という本が難解になってしまうことを自覚していた。

まえのほうの著書(引用者注:『経済学批判』)の内容は、この一巻の第一章に要約してある。[……]なにごとも初めが困難だということは、どの科学の場合にも言えることである。それゆえ、第一章、ことに商品の分析を含む節の理解は、最大の困難となるであろう。

岡崎次郎訳『資本論(1)』国民文庫、一九七二年、二一頁

 しかしマルクスは『資本論』が読みにくくなることと引き換えにしてでも、商品の章を書き増さなければならないと考えた。資本主義社会における富の基本単位である商品、その「呪物的性格」を明かさなければ、それ以上の叙述がありえないと考えたからだ。

 いつかマルクスについても書いてみたい。しかしここで『資本論』を長々とは読んでいられないので私なりに要約しよう。

 まず物について使用価値と交換価値というものが考えられる。使用価値とは、その物を使用することで得られる価値だ。

 水は飲める。飲めるという点で水は使用価値をもつ。ハンマーは、いろいろ使い方は考えられるが、さしあたり釘を打てる。釘を打てるという点でハンマーは使用価値をもつ。使用価値とはそのようなものだ。

 つぎに交換価値というものがある。それは物と物とを交換しようとしたときにあらわれる価値だ。交換価値は比率であらわれる。百杯の水が一本のハンマーと等しい、というように。

 交換価値の比率はそのときどきで変わる。あるときは百杯の水で一本のハンマーが、あるときは一杯の水で百本のハンマーが交換できる。

 その比率は貨幣、つまりはお金という特殊な商品が登場することで、徐々に均一化されていく。

 マルクスは、交換価値は使用価値のうえになりたつという。それは第一回でも書いた。使いようのないものには、そもそも交換における価値はつかない。マルクスは、そのような見立てのもとで経済を分析した。

 そしてマルクスは、ある物の交換価値が問題になっているときには、そのものの使用価値は問題にならないとする。

 つまり水一杯とハンマー百本が交換されようとしているとき、水は飲めるとか、ハンマーは釘が打てる、とかいうことは問題にならない。

 いかにそのハンマーたちに神話的な力が込められていて「選ばれし者が使えば虹の橋が架けられるのだ」と言ったところで、水一杯ハンマー百本という比率は、そのときは、頑として揺るがない。

 その商品は具体的な使用価値をもっている。しかし同時に交換価値ももっている。そして交換価値という観点からものをみると、商品の使用価値、そして使用価値を構成するその商品の具体的な形態はみえなくなる。

 この具体性と観念性がいれかわり立ちかわりする特殊な対象性を、マルクスは「幽霊的な対象性(gespentige Gegenständ)」と呼び、商品がそのような対象性を必然的に有してしまうことを「商品の呪物的性格」と呼んだ。

 マルクスが「商品の呪物的性格」というとき、ある商品が使用価値と交換価値の二重体である、ということが問題になる。

4 意匠の呪物的/魔術的性格

 小林の文章に戻ろう。小林が商品と書くとき、マルクスが分析した商品の呪物的性格もまた前提とされている。そしてマルクスが書いたとおりのことを、文章として再導入する。

現代を支配するものはマルクス唯物史観における「物」ではない、彼が明瞭に指定した商品という物である。

「様々なる意匠」『新訂 小林秀雄全集 第一巻』新潮社、一九七八年、二五頁

 それはマルクスが『資本論』のど頭に書きつけたことである。それを再び書くというところには戦略がある。

 この文章の仮想敵であるところの、マルクス主義批評を行う者たちに、君たちはその出発点を忘れてはいないか、と問うているのだ。

世のマルクス主義文芸批評家は、こんな事実、こんな論理を、最も単純なものとして笑うかもしれない。しかし、諸君の脳中においてマルクス観念学なるものは、理論に貫かれた実践でも、実践に貫かれた理論でもなくなっているのではないか。正に商品の一形態となって商品の魔術をふるっているではないか。商品は世を支配するとマルクス主義は語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行するとき、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するという平凡な事実を忘れさせる力をもつものである。

「様々なる意匠」『新訂 小林秀雄全集 第一巻』新潮社、一九七八年、二五-二六頁
旧仮名・旧漢字は改めた

 マルクス主義批評において、マルクス主義は意匠となっている。であるからマルクス主義の支柱であるところの「世界を変革すること」は、マルクス主義批評においては問題にならない。

 あるのはただ「世界を解釈する」営みである。マルクスがフォイエルバッハに関して書きつけたテーゼは、その思想の担い手たちによって反転される。

 世界の解釈でありつづけること。それ自体は問題ではない。その営みがマルクス主義という意匠をまとうことが問題なのだ。意匠が言っていることと、実際に言われていることとがつねに分離して、矛盾したメッセージを発しつづける。

 その分裂状態にあることにはメリットがある。ある批判を、ときに意匠に向けられたものとして、ときには語り手に向けられたものとして、自由にバランシングできるのだ。そこにははからずも「幽霊のような対象性」があらわれている。

 分裂状態の思想がある批判にさらされたとしよう。つねにふたつの逃げ道がある。

(一)その語り手はその思想に似つかわしくないことを語っている、であるからその批判は語り手については妥当するが、思想にまでは及ばない。

(二)その語り手の言うことは、その思想を超え出ていて、その思想を拡張しようとしているものだ。批判はかつてあった思想の姿しか批判できていない。

 ものはいいようである。分裂状態にある思想に対する批判者は、つねに一体多の戦いを強いられる。相手がひとりでもだ。

 では自分もある思想を意匠としてまとっていくとよいのかというと、今度は「主観批評」だといわれるわけである。いやはや。不公平な戦いである。

 小林のマルクス主義批評批判の一面は、その不公平さの批判でもある。さきに小林がマルクス主義批評が芸術作品を手前勝手な基準で判断し、その芸術作品の作り手という存在を認識できていない、と批判していた部分を読んだ。

 そのとき小林は、そのようなやり方では人は動かないという結語で、マルクス主義批評を批判していたのだが、しかし実際に当時マルクス主義批評は人を動かしていたのだ、ということも書いた。

 それが小林の批判のA面だとすると、今回書いたのはB面にあたる批判である。しかしそのふたつの批判は平行の関係にはない。上下の関係にある。

 商品に使用価値と交換価値という二層があるように、マルクス主義批評にも、マルクス主義という意匠とその批評における担い手という二層がある。

 小林のA面の批判はマルクス主義批評の担い手に向けられたもので、B面はマルクス主義という意匠に向けられたものだ、と整理できる。

 B面の批判は、ときに担い手があらわれ、ときに思想そのものがあらわれるという、マルクス主義という意匠の魔術性に向けられてる。そして今回の前半部に記したとおり、その魔術性はマルクス主義という特定の主義主張には限定されない。

 ある思想が実践形態に移行するとき、必ずその魔術性はあらわれる。商品が市場におかれた途端に呪物的性格を帯びるのと同じように。

 小林の「様々なる意匠」の凄さは、一般にマルクス主義を単なる意匠として切り捨てたところに求められる。しかし私はちがうと思う。それなら批判はA面の時点で十分なされている。それ以上を書く必要はなかった。

 小林はB面の批判を書くとともに、マルクス主義批評の担い手たちに呼びかけてもいる。「諸君の脳中においてマルクス観念学なるものは、理論に貫かれた実践でも、実践に貫かれた理論でもなくなっているのではないか」。

 たんにある思想をアウト・オブ・デートなものだと切り捨てるだけであれば、このような呼びかけは不要である。小林は気づきを促すためにこそ、呼びかけている。

 そのたてつけは「様々なる意匠」の冒頭で、真の批判対象が「言葉の魔術性」であると宣言されていたことから要請される必然だったのかもしれない。

 小林が撃ちたいのは、ある意匠の担い手ではない。意匠、そしてその意匠というものをさまざまな時代において再生産してしまう「言葉の魔術性」であったのだから。

次回→https://note.com/illbouze_/n/n385f8345133e

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