小林秀雄(2)――「様々なる意匠」(1)
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1 「様々なる意匠」がでたころ
小林秀雄の実質的な出生作である「様々なる意匠」は、昭和四年(一九二九年)の雑誌『改造』九月号に掲載された。
前回も書いたとおり、その論文は「『改造』懸賞文芸評論」の二等作である。一等作は宮本顕治の「敗北の文学」であった。
手もとにある『日本文化総合年表(岩波書店)』をひき、当時の世相をみてみよう。
昭和三年(一九二八年)。小林秀雄が「様々なる意匠」を世に問う、その前年。はじめての普通選挙が実施された。六月には治安維持法が急遽改正され、死刑・無期刑を含むかたちで即日施行される。それにさきんじて三月には全国的な共産党員の検挙が実施された。これを「三・一五事件」と呼んだりする。
政治の面で共産主義に対する排撃がはじまっていた。しかしなぜ排撃されるようになったかといえば、それは共産主義が力をもっていたからである。政治における共産主義の排撃がはじまった年、しかし、文化の面においては共産主義はその翼を大きく大きく広げている。
六月には改造社から『マルクス・エンゲルス全集』の刊行がはじまる。一九三五年までおよそ七年ほどをかけ完結した。現在のものに比べればむろん不完全ではあるものの、日本語でマルクスとエンゲルスの仕事を総合的に見渡すための視座が築かれた。
詩歌、小説の世界でも、中野重治「プロレタリアの詩」、小林多喜二「一九二八年三月一五日」、草野心平「第百階級」など、いわゆる「プロレタリア文学」の波が展開していた。三月には「全国無産者芸術連盟」、通称「ナップ」が設立し、五月にはプロレタリア文学展開の主要な舞台のひとつとなった雑誌『戦旗』が創刊されている。
ところで、これらのプロレタリア文学の流れとは離れるが、この当時の空気をよく表している作品として、一二月に谷崎潤一郎の「蓼喰ふ虫」が発表されている。私が編集人をつとめる雑誌『BRIDGES』の創刊号に掲載した論文のなかでもとりあげた作品だが、再度その言葉をひいてみよう。
「世界戦争」とは第一次世界大戦(一九一四年から一九一八年)のことを指す。「と、当人は云うのだが」というところまでは、主人公の馴染みの娼館の女将が、戦後の不景気について嘆いている言葉である。この不景気は一九三〇年代に「世界恐慌」として結実する。
谷崎は、しかし、外国商館の引き上げ、観光客の減少などの表面的な要素だけに、不振の原因は求められないだろうと、主人公に語らせているのだが、いずれにしても、この文章からは、当時の日本が陥っていたぼんやりとした不況・不振のありかたがみてとれる。
政治における近代的理念の実現(普通選挙の実施)。その反面としての共産主義の排撃。そして学問、文芸の領域における共産主義的価値観の浸透。その全体を覆う不況と不振。そのような状況のなかから小林秀雄の「様々なる意匠」は登場する。そしてその主題は、マルクス主義批評の批判、であった。どういうことか。
2 「様々なる意匠」のはじまり
「我々にとって幸福なことか不幸なことか知らないが、世にひとつとして簡単に片付く問題はない」「私はただ、彼らがなぜにあらゆる意匠をこらして登場しなければならぬかを、少々不審に思うばかりである」「私には常に舞台よりも楽屋のほうが面白い」「このような私にも、やっぱり軍略が必要だとするなら、『搦め手』から、これが私には最も人性論的法則にかなった軍略に見えるのだ」というような、「様々なる意匠」の冒頭に書き記された言葉たちからは、当時の小林の時評的・戦略的な意気込みがみてとれる。
小林は、比喩的にいえば「弾倉をいっぱいにして」この文章を書きはじめている。そして彼はまだ新人であるから、誰かがくるのを待っているわけではない。呼ばれてもいないのに誰かのもとにやっていき、そして撃とうとしているのである。上にかかげた言葉には、そのまさに誰かを撃たんとする直前の、じりじりとした緊張があらわれている。
ところで、そのような戦略的な言葉に少々埋もれてはいるが、「様々なる意匠」という論文の核、あるいは基底とされる認識もまた冒頭に記されている。
言葉は考えるための唯一の道具だ。しかし、その言葉には「魔術」がある。崇高なだけ、劣悪なだけという言葉は存在しない。そして崇高さと劣悪さは、たがいに「そそのかし(指嗾)」あう。崇高と劣悪が、劣悪と崇高さが、いれかわり、たちかわりする。そのような魔術的な対象性(Aだと思ってたものが、そのままBに変わる)が言葉にはあり、その性質を抜きにして言葉を考えることはできない。
と、このように小林は書きだしているのだから、じつはこの論の道行はすでに限定されている。つまり彼はそのような言葉の魔術性に鈍感な、あるいはその魔術性を排しても言葉はなりたつ、というひとびとを批判しようとしているのだ。
そのひとたちは「影」としての言葉を使っている。影には輪郭があって中身がない。その空疎な輪郭を小林は「意匠」と呼んでいる。意匠、つまりはデザインであり、ファッションのこと。小林はファッションとしての言葉を批判しようとしている。しかし小林が狙いをさだめた、ファッションとはなんなのか。
標的は「文芸批評家」に定められる。日本の文芸批評の祖とみなされる人物が、しかし、その出生作において、苛烈な文芸批評批判を繰り広げていたという歴史的事実は、どれだけ強調してもしすぎるということはない。
そこにある逆説、そしてその逆説を逆説としてみないために創立されたさまざまなフィクション、それを暴くことが小林がこの論文で企図したことだ。
すこしさきの言葉を拾うが、ここで小林は「主観批評」あるいは「印象批評」と呼ばれるものと、理論による批評を、一旦は対置している。そして、両者はともに、それ自体としてあることは、難しくない、という。難しいのはそれらを「生き生きと」「溌剌」に更新し続けることだ。
小林はひとまず「嗜好」と「尺度」というふうに置いているが、ここは尺度という言葉に一貫させよう。
なにかを評するには尺度がいる。つまり、なにかの作品について良い悪い、優劣をいうのであるから、ものさしは必要だ。
必要でないという批評家がいたら、そのひとは単に無責任なだけだろう。無責任であるひとは、批評家である以前に、前回引いた小林の言葉を使うなら「作家」ではない。作家であるための覚悟を欠いたひとであり、つまり物を創るひとではない。話がそれた。
主観批評や印象批評とよばれる批評は、その尺度を、批評家の主観に置く。批評家の審美眼が尺度となり、作品の良悪、優劣が判断される。しかし、この主観批評・印象批評の規定は、外部からなされたものである。外部とはなにか。それが、理論による批評である。
理論による批評。理論の部分はじつはなんでもいい。主観でさえなければ、なんでもいいのだ。この論文で標的とされるところの、マルクス主義批評でいうならば、マルクス主義が理論となる。
理論、それは主観の外部にある尺度だ。理論による批評を行う批評家は、その外部の尺度を参照して、作品の判断を行う。批評家の優秀さは、その尺度を正確に理解しているか、あるいは当意即妙に尺度を現実にあてはめることができるかにかかってくるだろう。
理論による批評からみれば、それ以外の批評というのは、すべて主観批評であり印象批評である。「ある」理論による批評からみれば、「別の」理論による批評もまた、主観批評や印象批評にみえてしまうところが、恐ろしいところなのだが。
であるから、主観批評や印象批評というようなレッテルにはなんの意味もない。ある理論による批評とその外部。そのような二項対立だけが問題なのだが、小林はその二項対立、そしてその対立がそのままであることは、容易なことだという。
私の整理にしたがうなら、小林が難しいというのは、ある理論による批評と、別の理論による批評とを横断していくこと、になるだろう。その横断は作品に即するために生じる。
あたりまえの話だが、ある作品は、特定の理論に迎合するために、あるいは特定の批評家のおメガネにかなうために、世に生みだされるわけではなく、ひとりの作家の存在の出力として生みだされる。
そして作品は現実に無数に生みだされていて、存在の出力自体が多様だ。そのすべてを裁断できる理論も審美眼も原理的に存在しない。
だから、批評家はひとつひとつの作品にあわせる勢いで、理論も審美眼も更新しなければいけないのだが、こう書いてみるとはっきりとわかるように、それは難しい。難しいというより大変という言葉が適しているだろう。
そしてそれが大変だからこそ、小林が批判するような当時の文芸時評は、理論と主観という二項対立に安住した。それぞれの項目のなかで、自身は崇高だといいつのる。その材料として世にある作品を手前勝手に裁断する。その身振りによって崇高さは劣悪さへと転化する。冒頭の言葉が響いてくる。
そしてそのような状況のなかで忘れられるのは、批評の本願、さきにひいた言葉であれば、批評の願いである。そのことを小林は嗜好と尺度の問題を整理するなかで、しかしはっきりと書きつけている。
批評の願いは、人を動かすことにある。人となんの限定もなしに書かれているから、とりあえずそこには作家、批評家、読者あたりが含まれるだろう。批評はそのひとたちを動かすためにある。
しかし、批評家はその願いを忘れて、別のことをはじめる。自身の存在証明だ。もうすこし簡単に「自分の居場所作り」とでもいっておきたいが、馬鹿にしすぎだろうか。
そのために批評家は理論だ主観だと争いはじめる。批評家同士の争いのために作品を駒として使いはじめる。その争いでは理論や主観の更新は行われない。どのような駒をどのように評するか。その意匠=ファッションだけが主眼となる。崇高な願いは劣悪な行為へと転化する。
ところで、このように記すと「人を動かす、つまりは『扇動』が目的なのか」とかいいはじめる批評家あるいは批評家予備軍たちの存在が否応なしに想起されるのであるが、そのような自由連想の劣悪さに自覚できるほどの心を、そのようなひとたちには持ってほしいものだと私は毎朝毎晩祈ることをやめない。話がそれた。
3 小林の配慮
これは「様々なる批評」の本当に冒頭の一部分から読めることにすぎない。しかし一部分であっても、ある論の冒頭には、それからさきの論の道行を限定する仕掛け、あるいはその論の目的を開陳している部分というのが、よくみつかる。私はそれをすこし展開しただけだ。
これまで引いたのは「様々なる意匠」の一、二節の部分だ。三節からは具体的な批評の批判が行われる。しかし紙幅も限定されているから、その部分は次回読むことにしよう。今回は一、二節のあいだでの問題整理にとどめたい。
私は冒頭で「様々なる意匠」の基底にある認識を「言葉の魔術性」への自覚に求めた。その部分をこれまでの話と織り合わせよう。
小林による、批評の主観と理論の立場の整理は、具体的な批評家の名前がまだ登場していないにもかかわらず、大枠でみるとかなり「ちくちく」としている。はじめて私がこの文章を読んだときに、そのちくちくさに憤りを覚えたことは素直に告白しておこう。
しかしあらためて読みなおしていて感じるのは、小林による繊細な配慮の仕掛けである。ふたつの仕掛けがある。
まず小林は、批評家の理論と主観という対立を素描するまえに、詩人、小説家に並列する存在として批評家をあげている。つまり批評を批判しようとする小林は、単純な事実として、批評家以外の創作者の存在を明示するところから論をはじめる。
批評の内部の対立。その対立が批評家のなかだけで行われていれば、多分、小林はなにも言わなかっただろう。対立している批評家がただ河原で殴り合っているだけであれば、正直な話、害はない。見かけたら警察を呼ぶかもしれないが。
しかし批評の対立は、その対立に一義的に関係のない、他の創作物を巻きこんで行われる。さきほども書いた通り、どの作品をどのように評するかで、批評家は争う。意匠で争うというか、自身の身振りを意匠(=ファッション)として飾り立てるし、なんならそこで取り上げる作品すら意匠(=アクセサリー)として扱いはじめる。
小林はその劣悪さを指摘するために、まず批評家以外に、批評家のまわりに、創作者がいるのだ、そしてその創作者は現実に存在する人間であり、作品とはその現実に存在する創作者が自身の存在の出力として生みだしたものなのだという、あまりにも単純な事実を最初にあげている。
小林が批判しようとする批評家はそのことを忘れている。忘れているから、崇高な理論も主観も、ただただ劣悪なのだ。
しかし、小林がうまいのは、その劣悪さをある批評家個人の資質・人格には求めていないところだ。そこにふたつめの仕掛けがある。小林はそのような劣悪さを招来するものとして「言葉の魔術性」を、論のど頭で指摘している。再度引いておこう。
あるひとが劣悪なのではない。ひとが考えるために使う道具である言葉こそが、ひとを劣悪に誘うのだ。その条件は特定の個人だけでなく人間に共通している。そしてひとを劣悪さに誘う言葉の性質は、ひとを崇高さに誘う性質と表裏一体のものであって、そこを排して言葉というものはなりたたない。
そのような人間存在の条件を具体例に即して考えるために、小林は批評家の対立という例をとりあげる。すくなくともそのような論の構えをとる。実際には特定の批評家にムカついていただけかもしれないが、そのように読めるような仕掛けをしっかりと、冒頭からしかけている。
ここに私は小林の繊細な配慮をみるし、そしてかつて小林に代表されるような批評のスタイルが力を有していたことの理由もまたみてとりたい。
小林は作品を批評家から守るために批評を書いている。そのように書きはじめたひとだ。しかし批評家というものを攻撃するにあたって小林は下卑た攻撃の手段は使わない。「どうしてもそうなってしまうのだ」というなりゆきの問題として、批評を批判する。
そのような作品と批評批判のフィッティングが時期によって、いれかわり、たちかわりするのだが、そのように自身のありかたを常々更新し、そしてそれを文章のうえに落としこんだところに、私は小林の心、本願をみる。
その動きを遠目にながめて、ありゃ、右往左往と踊っている、どこそことここは矛盾している、戦前と戦後では、などといって小林を裁断するのは難しい。
その程度では裁断しきれないような姿勢が、「様々なる意匠」の冒頭にはすでに現れている。
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