小林秀雄(5)――「様々なる意匠」(4)
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1 新興芸術派とはなにか
以前に書いたとおり小林秀雄が「様々なる意匠」で批判対象としてあげたのは、マルクス主義批評の陣営と「芸術のための芸術」を標榜する批評の陣営である。
「芸術のための芸術」を標榜する批評の陣営。まだるっこしい書き方である。小林は前者のほうを「マルクス主義文芸批評家」と名指しているのに、後者のほうを明確に名指すことをしない。
では後者の陣営には「マルクス主義批評」のような明確な名前がないのかというと、じつはそんなこともない。後者に属するひとびとは当時「新興芸術派」とよばれた。のちに新潮社からは「新興芸術派叢書」というシリーズが刊行されてもいる。
小林が「様々なる意匠」のなかで、この陣営を確固たる名前で呼んでいないのは、この陣営が小林がこの文章を書くのとほぼ同時期にたちあがりはじめた運動であるからだ。流れをみてみよう。
小林が『改造』誌に「様々なる意匠」を発表する前年。昭和三年(一九二八年)の六月に中村武羅夫が『新潮』に「誰だ?花園を荒らす者は!――イズムの文学より、個性の文学へ」という評論を発表する。一般にこの文章が新興芸術派のおこりとされている。ちなみに中村は当時の『新潮』の編集長である。
ところで今回調べて初めて知ったのだが「武羅夫」と書いて「むらお」と読む。これまで私は「ぶらお」と読んでいた。筆名のゆかりが「ブラフ」に似ているからということだから、間違うのも仕方がないのかもしれない。戻ろう。
中村の文の主題は、文芸をマルクス主義批評から擁護することである。その点で小林とも共通する点はある。引こう。
私は小林のマルクス主義批評批判をひくにあたって、当時のマルクス主義批評の代表的論者の文章を引くことをしなかった。なぜか。多すぎるからだ。
それほど当時マルクス主義批評は文芸の世界で盛んであった。そしてこの中村のような反発が、いままさに大々的に起ころうとしているところに、小林が登場してきたのだ。
しかしひとりは見ておこう。この中村の文に対する応答として読めるものをひとつ。
平林初之輔の「政治的価値と芸術的価値――マルクス主義文学理論の再吟味」である。中村の文章の翌年、すなわち小林が「様々なる意匠」を発表する年の『新潮』三月号に掲載されている。つまり小林もこの文章は読んでいたと思う。
いやはや、新興芸術派がいままさに勃興を迎えようとしているときに、マルクス主義批評の陣営は「理論の再吟味」を行おうとしているのだから、新興芸術派にとっては、なかなかに厳しい戦いである。引いてみよう。
むろん、このあとに「いやいや、とはいえだよ」という言葉が続くと思ったら大間違いである。平林はこの調子で爆進していく。
読者のなかには、これまでの私の文章を読んで「さすがに『マルクス主義批評』を典型的に描きすぎじゃないか……?」と思われていた方もいるだろうが、いやはや実際典型的なのである。小林がブチギレながら論壇に登場したことも理由のないことではないのである。
当時の文芸誌におけるマルクス主義批評の文章は、大なり小なりこのような調子のもとで書かれていて、中村の反発もまた理由のないことではない。そのような反発が結晶化したのが新興芸術派である。
中村の文章の翌年、すなわち小林が「様々なる意匠」を発表した年に、中村を中心として反マルクス主義批評と純文学の芸術性を掲げて「十三人倶楽部」が結成される。
メンバーは中村武羅夫、浅原六朗、飯島正、尾崎士郎、岡田三郎、翁久允、加藤武雄、川端康成、嘉村礒多、久野豊彦、佐左木俊郎、楢崎勤、龍胆寺雄である。
このメンバーの作品は小林の初期の評論文において盛んにとりあげられることになる。頭の片隅においておくと小林の文章が読みやすくなる。
この十三人倶楽部を中心として形成されたのが新興芸術派である。が、いろいろあってそんなに長続きはしない。
昭和八年には『文学界』『行動』『文藝』という文芸誌が続々と創刊され、新興芸術派はそこで繰り広げられた「文芸復興」の運動のなかに解消されていく(なお『文學界』には小林も編集人として参加する)。
であるから、新興芸術派が新興芸術派として論じられたり批判されたりしたのは、昭和四年から昭和八年のごくごくわずかな期間でしかありえず、小林がなんだかぼやかした書き方で批判の遡上にあげていたことも、いまからみればまあそれはそれでよかったのかもしれない。
2 新興芸術派と小林の差異
小林は「様々なる意匠」のなかで、のちこの新興芸術派につながることになる運動の先端を批判している。
しかしさきに引いた中村の文章とくらべてみると、マルクス主義批評批判の部分については、小林と新興芸術派とで一定の共有部分がある。なにが違うのか。
前回の話を引き継ぐと、大きくマルクス主義批評批判の射程が、小林と新興芸術派(と、便宜上書くが、小林が「様々なる意匠」を書いた時点でこの名前はまだない。ただ中村の文章を代表させて、一応その名前で呼ばせてもらう)とのあいだでは違う。
小林のマルクス主義批評はA面とB面からなっていると前回書いた。早速で恐縮なのだが「A面とB面」というのは、それはそれである世代のひとにしか伝わらない比喩だと感じる。
なので以後、カール・レーヴィットが『ヨーロッパのニヒリズム』の日本版跋文に記した「一階と二階」という言葉をあてさせてもらう(これはこれでまた様々な文脈が絡んでて使いづらい言葉でもあるのだが)。
一階の批判は、マルクス主義批評の担い手たちに向けられたものである。
いわく、マルクス主義批評は作者の存在を忘れている。マルクス主義の公準からみてよい作品を書いている作者はプロレタリア作家、よくない作品を書いている作者はブルジョア作家となるが、そう単純にわけられるものではない。
そのような手前勝手な裁断を行うことは、人民のためというマルクス主義の公準にすら反しているのではないか。作家も人民に含まれるのだから。これが小林によるマルクス主義批評の一階の批判だ。
新興芸術派は、この一階の批判を小林と共有している。批判の内容というか批判の調子を共有している。しかし二階の部分が異なる。新興芸術派のマルクス主義批評批判に小林の批判における二階の部分は存在しない。
二階の批判とはこうであった。マルクス主義批評においてマルクス主義は意匠である。つまりファッションである。担い手と意匠とは分離している。だから一階の批判のような矛盾が矛盾として担い手に意識されない。しかしそのような意匠の魔術性を批判することこそがマルクス主義なのではないか。
その点においてマルクス主義批評家は、ベタにマルクス主義と矛盾しているのではない。ある種の戦略としてその矛盾を選択してしまっている。
その選択はマルクス主義という意匠の魔術性によって引き起こされる。しかし仮にもマルクス主義を標榜するのであれば、そのような魔術に対する批判性を有するべきではないか。
これが小林によるマルクス主義批評批判の二階部分である。この二階部分の存在が「様々なる意匠」の卓越なのだということは前回書いた。
この二階部分が新興芸術派にはない。だから批判するのだ、というわけではないのだが、この二階部分の主張の構成要素のひとつが小林の新興芸術派批判ではあらわれる。
それはなにか。小林のマルクス主義批評に対する批判の二階部分は、じつはある自負がなければ成立しない。その自負とは、自分はマルクス主義を標榜する人間たちよりもマルクス主義を理解している、という自負である。
そのような自負があるからこそ、小林はマルクスの言葉を使って、マルクス主義批評家たちを批判することができた。
マルクス主義批評を批判する小林は、ときにマルクス主義者を超えたマルクス主義者となる。そして新興芸術派を批判するとき、この超マルクス主義者としての小林が顔を覗かせる。どういうことか。「様々なる意匠」を読もう。
3 新興芸術派の批判
ソレリアンとは、スタンダールの『赤と黒』の主人公である野心家ジュリアン・ソレルに心酔し、そのありかたにあこがれたひとびとを指す。しかし論旨にはあまり関係がない。当時はその言葉にそのような文脈が込められていたということが学べるのはいいことだ。
「自然は芸術を模倣する」というのもオスカー・ワイルドが、アリストテレスの『詩学』に帰される「芸術は自然を模倣する」という言葉の反語である。ワイルドは中村の文章にも登場しており、当時のロマン主義者であればまっさきに挙げる名前であったのだろうという事情が伺える。
このふたつの注記をもとに引用した文の「故に」までの前半部分を読んでみよう。
小林はまず順序の問題を指摘する。「自然は芸術を模倣する」というロマン主義的な、それゆえに新興芸術派もまた共有する考えは、純粋な順序問題として「芸術が自然を模倣する」という現実に先行されている。「芸術が自然を模倣しない限り自然は芸術を模倣しない」
そして、この順序の問題はスタンダールとソレリアンの関係にもあてはまるとする。『赤と黒』は「多くのソレリアンの出現を予期した」ようにいわれる。しかし「彼は己れの仕事が世を動かすと信ずる前に、己が世に烈しく動かされることを願った」。
つまりスタンダール自身がジュリアン・ソレルのような人物に心を動かされたいと願ったからこそ、彼はその登場人物を描いたのであって、どこそこにすでにいる人物を描いたら、それがたまたまジュリアン・ソレルであって、そのイメージにひとの心が動かされたというわけではない。まずスタンダールの心の動きが先行している。
小林はロマン主義的な観念論に対して現実の順序の問題をたてる。それはつまり唯物論的な立場にたつということである。そして当時の直近でそのような問題の立て方をみせたのが、まさにマルクスであった。
マルクスはヘーゲルの哲学を否定しない。しかしそれを活かすには順番を逆さにする必要があるという。小林もまた新興芸術派の考えを否定しない。しかし順番を逆にしなければならないという。マルクス主義者ならではの手つきがここにはあらわれている。
自然の芸術の模倣には、芸術の自然の模倣が先行しなければならないし、実際にしている。
もし「自然の芸術の模倣」や「芸術のための芸術」ということが、それだけで、始点としていわれることがあるならば、それは「積極的陶酔の形式を示すものではなく、むしろ、自然が、あるいは社会が、芸術を捨てたという衰弱の形式を示す」のだが、そんなことはありえないのだ、と小林はいっている。
では小林の考える実際とはなんなのか。
自然が芸術を模倣するとか、芸術のための芸術とかいうまえに、芸術はなによりも人間の表現なのだ。それ以外に芸術のはじまりはありえず、美や真理の実現というのは、そのあとでなされる(あるいは、なされるかもしれない)ことにすぎない。小林はそう考える。
こうしてみると、小林のマルクス主義批評批判の一階と、新興芸術派の批判もまた似通っていることがわかる。
これまでマルクス主義批評と新興芸術派(そのときの書き方では、理論による批評と主観批評)とは、補完関係にあって対立しているものだと書いた。だからその両者は似ているのだ。対象が似ているのであれば、個別に対する批判もまた似てくる。
両者に共通するのは唯物論の立場からの観念論批判だ。ここで唯物論とは、特定の公式や唯物論者といわれる特定の思想家の思想の内容を意味するものではない。観念論、すなわち人間がもつイメージの世界で完結する思考に対して、現実世界の規則のイメージで批判を行う立場を意味する。
マルクス主義批評と新興芸術派。小林はそれぞれに対して唯物論者としての批判を行っている。
新興芸術派はマルクス主義批評に対する反動からはじまった。であるから小林と同じような形でマルクス主義批評を批判するという道にも進めた。
しかし新興芸術派は「芸術のための芸術」という公式をたてはじめる。その公式は現実の順序を無視した新しい観念論である。だから小林は新興芸術派に対しても批判を行う。
4 またしても忘却される芸術家
では新興芸術派の観念論には理論構成のいびつさ以上のどのような問題があるのか。小林はここでもまた批評家と芸術家の分離、そして批評家による芸術家の存在の忘却がとりあげる。
「芸術のための芸術」というのをスローガンにする。最初はいい。しかし、しばらくすれば「では、芸術とはなにか」という問いが生まれる。それが言葉の自然である。そしてひとたびその問いにとりかかれば人間はどこまででも進む。あらゆる構造と図式が発見される。しかし、そのとき作品の担い手の存在は忘却される。それが言葉の魔術だ。
これは小林による新興芸術派の批判である。しかしここには小林のマルクス主義批評批判の一階部分の補足説明、すなわちなぜある理論は、その理論が守るべきものの存在を忘れてしまうのか、という部分の説明になっている。
であるから小林のマルクス主義批評の批判と新興芸術派の批判とは補完の関係において読まなければならない。
その補完関係がなりたつのは、新興芸術派がマルクス主義批評の反としてだけ生まれてしまったこと、であるがゆえに両者がともに観念論である、ということに由来する。
そしてこのような整理を得ることで、小林がそもそも批判しようとしていた「言葉の魔術性」というものの姿の一端がみえてくる。すなわち「芸術についての観念論」である。
芸術についての観念論は、作品をひとつの観念として扱う。そのかぎりで、その作品がある別の思想や概念をあらわしているとかあらわしていない、ということをいえる。
作品がひとつの観念として扱われるということは、その作品がどのようにして生まれたか、ということは問題にならないということだ。
観念は意識にすでに・つねに与えられている。それがなければ観念論は成立しない。であるから観念の成立過程(生成とか自然史過程とかいろいろ言い換えはできる)を考えることができない。それが観念論の鉄柵であり、その鉄柵は「言葉の魔術性」によって生まれる。
言葉の魔術性。言葉は存在が発する。つまりは人間が言葉を発する。言葉は存在の記号である。現実の存在の代替として言葉は生まれる。総じて言葉の背後には存在がある。
しかし、それは言葉の十分条件でしかない。当初は必要条件であるのだが、言葉がひとたび稼働しはじめれば、その条件は十分条件に堕ちる。
どういうことかいえば、言葉にとって存在が必ずしも必要なものではなくなる。言葉をあらわす言葉が生まれるし、存在しないものに対応する言葉が生まれる。そのような言葉を使用したコミュニケーションが行われるようになれば、存在に対応しない言葉というのはますます増殖していく。
すでに前五世紀の時点で人間にとって言葉はそのような様相を呈していた。プラトンがあらためて、言葉には存在が対応している、ということをいわなければいけないくらいには事態は進行していたのだ。
だからもはや、存在と対応している言葉しかない、という状態なんて、人類史においていちどたりとも存在しなかったのではないか、と疑いたくなるくらいである(そして私は実際なかっただろうな、と思っている)。
そしてこの事態に対する近代的整理もまたヘーゲル左派の時代にはすでに提出されていて、それをうまい具合に実践的な哲学にまとめたのがマルクスではあるのだが、まとめたからといって、その条件から逃れることができるかというと、それとこれとは話が別なのである。
言葉の魔術性とは、すなわち言葉による存在の忘却のことである。それは芸術についての観念論が言葉によって作者を忘れることに似ている。そのことを小林は「様々なる意匠」でいっている。
しかし、それを引き起こす条件は私たちが人間であるかぎりにおいては変わらない。今も変わらないのだ。このように分析することで、その条件自体を忘れないようにすることしか、結局できることはないのである。
次回で「様々なる意匠」の読解を終えたい。
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