自分自身を書く苦しみ
私が何故書けないのか、その一端に向き合わさせられる本であった。
とりあえず私は格好つけたい、格好良く見せたい、しかし、今の自分の限界を見ることや、それを変えようと苦しむことは嫌だったのだ。
今書ける文章というのは、今の自身の限界を映し出してしまう、鏡のようなものだ。そこに、今の自分を映し出せば、現状のとるに足らない文章しか書けない自分というものを受け入れざるを得なくなる。私はそれを見るのが嫌で嫌で堪らなかったのだ。
そして頭の中で妄想している分には斬新なアイデアや名文を妄想のままで残すことで、まるで財宝を隠しもっているような感覚になっていたのだろう。それが虚構でしかないということに目を背けて。
また私の書いたものに対して、いつ何時昨今の炎上騒動のように攻撃されるのかもしれないという過剰な恐怖も、書くことに対して萎縮をしてしまっていた要因なのだろう。
この本の著者達も書くことに対して、苦しんでいる人達ばかりである。
しかし、私と違うのは、書くことに苦しみながらも、自身の限界を見つめ、それを許して、受けいれようとしている。
鏡に映った自分自身を受け入れ、そして次に向けてもがくことができるかが、書くことができるかどうかの違いなのだろう。
書くことで表現できることなどは、自身の思考のほんの一部にすぎず、自分が記すことができることばは自身がこれまでインプットしてきたことばを、割り当てて記しているにすぎない。
自分自身の考えと表現も完全には合致することがない、そんな限界があるもので、自分の考えを余すことなく、伝えられると考えるのが、もとより無理なのだ。
そのことを許容する一歩にこの本はなってくれた。
しかし、限界を知り許容するだけでは、妄想から先には進むことはできない。後は実際に書き、何度も自身の限界を直視するしかない。そうして少しずつ限界の見え方が変わっていくようにもがくしかないのだ。
今後、私自身の限界を変える一歩として、ネットの片隅でもがいてみようと思う。
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