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OKINAWAの遊女はニッポンイチだったのでありんす。

noteの皆さま、こんばんは。わたしの記事、どれくらいの「うちなんちゅ」が見てくれているのでしょう。ちょっと気になる、Sazanamiです。

と、いうのも、「沖縄のひとは、内地(県外)のひとに引けをとらないほど、すばらしい!」と、声を大にして、言いたくなったのです。



その、きっかけをくれたのが、この本。


昭和の名バイプレイヤー・殿山泰司さんの
エッセイ集です。



パラパラと、ページをめくると、ローマ字で


OKINAWA



の文字が、







どーん!





と、飛びこんできました。







なんと、タイちゃんこと殿山さん、辻町の遊郭に行ったことがあるとか。


昭和15年・夏のことだそうです。







オンナ個人が、二百年以上ものの泡盛を持っており、電気蓄音器まで持ってて、レコードもオレの大好きな、ガーシュインのラプソディ・イン・ブルーまであったんだから、ビックリして腰を抜かしたねオレは。

普通のお女郎さんとは教養がチガウよ。



殿山泰司ベスト・エッセイp201〜202
「OKINAWAへの愚察」より、引用







タイちゃん、辻の遊郭に1週間「イツヅケ」して、ついには、「このオンナと心中しようかと真剣に考えた」ほど、そこのお女郎さんに惚れこんでいたのです。




「ああ夏の日の思い出よ。今となっては幻の、あの守礼の国に、オレはもう一度行きたい」






と、辻の町を通して、
沖縄に思いを馳せてくれています。







ここで、「辻町遊郭」の説明を、すこし。






「辻町」とは、いま、沖縄でもっとも大きな歓楽街になっている「松山」より南の、海に面した町です。現在の「波の上宮」周辺から、若狭うみそらトンネルあたりまでの地域で、東京でいうと





「吉原」






あの地域の「沖縄版」と言っていいところで、「高級料亭」がひしめく「花街」でした。






戦前から、政財界や教育界などの、あらゆる人々が集い、夜な夜な、高度な接待や華やかな宴が行われていたとか。



戦時中、那覇市を襲った「10・10空襲」により、辻の町は焼失。しかし、戦後、食事と琉球芸能を堪能できる料亭が立ち並ぶ花街として、復活。






その象徴であるお店が、「料亭 那覇」です。


詳しくは、こちら↓


ちょっとだけ引用させていただいた「辻町の歴史」とともに、お店の魅力も、あますところなく紹介されています。






辻の町で、タイちゃんをもてなしていた遊女たちは、「ジュリ」と呼ばれていました。






琉球時代、かなり貧しかった農村地区から、借金返済などの「家庭の事情」で、売りに出された娘たちが多かったそうです。





彼女たちは、辻の花街で、政財界の要人、官公庁や教育界の指導者、那覇の商人などを「接待」していたようです。









そういった「お客」をもてなすために、料理や歌、三線、琴、踊りなどの芸事に磨きをかけ、言葉、立ち居振る舞いから衣装、髪型、料理、芸能にいたるまで、独自の文化を築きあげたとか。


(以上、okinawaclip.comより、引用)









そして、旧暦の1月20日になると、辻町一帯では、「ジュリ馬行列祭り」が、行われます。

自由に外出することを、許されなかったジュリたちが、この日だけは、外の世界にいる家族に、元気な姿を見せることが、できたそうです。




タイちゃんが舌を巻いた、ジュリの「おもてなし」には、このような背景があったんですね!









1960年代後半、タイちゃんの言うように、
沖縄は「外国」として扱われていました。






甲子園に出場した首里高校の生徒たちは、パスポートを所持して、船に乗って神戸まで行って、帰ってきたのです。



甲子園の土は、「外国の地で取った土」でした。



【9/23追記】

わたし、首里高の球児たちが、「甲子園の土を持ち帰った」ものだと、記憶ちがいをしておりました。詳しくは、こちらです。






「外国の地で取った甲子園の土」は、帰りの船で没収され、海に捨てられた、とあります。



「土を持ち帰る」という、「普通」が、
叶わなかった時代だったんですね。



というか、いま見たら、甲子園の「砂」って書いてあって、これも、あわてて直しました。

土ですらない。砂、って😂



ほんとうに、わたし、
生まれ育った沖縄のことを
なにも知らないなぁ😵


【追記おわり】





あの当時、沖縄から身ひとつで上京した「うちなんちゅ」は、お腹をすかせてやってきた食堂の入り口に、「沖縄人おことわり」の貼り紙があるなど、理不尽な差別に、さらされ続けていました。









もっと時代をさかのぼると、学校には「方言札」なるものがありました。



子どもたちは、学校で、方言をしゃべってしまうと、その札を首から下げさせられ、廊下に立たされるなどの「おしおき」を受けていました。








こんな感じで、「沖縄のひとですよ!」と、
胸を張れない時代が、長く続いたのです。









そんな時代背景も、少なからず影響しているのか、いないのか、沖縄のひとたち、いやいや、わたしは、若いころ、県外のひとにたいして、コンプレックスがありました。たぶん、今でもあります。







わたしが大学受験するときも、


「こっちは、ここの大学に受かるために必死で勉強してきたのに、(おなじ大学の)内地の友だちは、滑り止めで入ったとか、記念受験だったとか。なんか悔しい」






みたいな意見を、国公立の大学を受験する友人たちから、よく耳にしていました。





社会に出るようになると、こんどは



「県外のひとは、沖縄のひとに比べると物おじしない。そして、地元のひとよりも、沖縄の良さを見抜く眼力がある気がする」



など、県外のひとは、地元のひとより商才がある的な意見を、よく聞くようになりました。





なるほど、たしかに、県内で人気のカフェなど、沖縄で事業を立ち上げて、成功してるのは、内地のひとが多いのかも……。




と、読谷あたりの海沿いを車で走りながら、うんうん頷いていた時期も、ありました。









でも、タイちゃんのエッセイに書かれている
「ジュリ」は、ぜんぜん違います。




タイちゃんの住む地の遊女たちよりも、
格段に、教養がある。








言うなれば、日本のトップ!?










いまで言ったら、「銀座のホステス」のような……(言い回しが古い気がする)。




政財界の要人たちをもてなすために、多方面の分野の知識・教養があって、彼らを飽きさせない「話題」を、たくさん引き出せる、という点が、ジュリたちと、銀座のママたちとの共通項なのかしら、と思って。









沖縄の、海沿いにある小さな街にも、県外に引けを取らない「文化」「教養」を持ったひとたちが、実は、たくさんいた。









タイちゃんの教えてくれた、この事実は、




沖縄生まれ沖縄育ちの芸能人や、アスリートたちが、めざましく活躍しているいまでも、










「うちなんちゅの私たちは、内地のひとより劣っているよね」











と、どこかで思っていたわたしを、だいぶ、勇気づけてくれました。








タイちゃんには、沖縄生まれの友だちや仕事仲間が多くいて、彼らのことを「少しも外国人だとは思わない、いや思えない、オレと同じニッポン人である」と、エッセイの中でお話しています。




彼の、この言葉、そして、終始、沖縄のひとびとに寄り添った文章に、当時の「うちなんちゅ」もかなり、励まされたんじゃないでしょうか。









わたしは、沖縄のひとなのに
沖縄のことを、なにも知らないので、
アレですけど😅






きもちだけでも、


内地のひとと、対等でいよう。







タイちゃんに、そう、思わされました。




そして、生まれ育った沖縄のことを、もっと知りたくなりました。noteで発信するのをきっかけに、さらに、勉強していくつもりです。



もっと、「うちなんちゅ・Sazanami」を
前面に、押し出したい。








この記事







いやいや、



タイちゃんの、「うちなんちゅ」への思い。









もっと多くのひとに、届きますように✨



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さいごまで、読んでくれたあなたへ



そういえば、わたしがハタチそこそこの頃、


「気まぐれポニーテール」



なるホテルが、辻にありました。




入ったことは、ないけれど


ポニーテールの女の子の、絵が描かれた看板が、

印象的でした。


ちょっと、80年代の漫画チックな

絵だったなぁ。



この記事、書いてたら


ふと、思い出して



懐かしくなりました。















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Sazanami
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