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震災から10年、福島から海外へ避難して~Ⅷ 和歌山にて 母に追い出されそうに

Ⅷ 和歌山にて

1. 役場と学校に行った!

 3月17日、紀美野町役場に行きました。私の住んでいた福島県川俣町は福島第一原発から42㎞、避難区域は30㎞圏内なので、私は自主避難にあたります。本来なら行政に何も言えない立場のはずですが、震災がきっかけで避難したことに変わりはないので、役場に報告だけはしておこうかな、と思ったのです。
 「自主避難ですが、」と言ったのですが、役場の人達は福島から来たというだけで驚き、そして、とても暖かく対応してくれました。被災自治体から来た人は医療費が無料になり川俣町もその対象になることを調べて教えてくれたり、福祉課の方が新品の布団を家に届けに来てくれたり、日用品を集めて下さったりしました。
 役場に子どもを連れて行ったので、学校のことも心配され、2階の教育委員会に案内されました。びっくりしたことに、すぐに野上小学校に連れて行ってくれたのです。
 子どもたちは恥ずかしそうでしたが、嬉しそうでもありました。福島で通っていた小学校は浪江町の方々の避難所になり、また、原発が予断を許さない状況だったので、休校のままでした。私たちも震災後すぐに避難生活に入り、子どもの学校どころではなかったのです。
 でも、子どもには学ぶ場と友達が必要です。
 野上小学校では、転校手続きなしでも体験入学という形で学校に通わせてくれるという柔軟な対応をして下さり、「早速明日から来て下さい。」と言ってくれました。
 ランドセルや上履き、制服なども父兄の方に聞くということで、教頭先生がとても親身になってご尽力いただき集めて下さいました。育友会(PTA)の皆さんも、子供たち3人でも着きれないくらい大量の制服や私服、学用品を集めて下さり、本当にありがたかったです。
 あたたかく迎えられ、野上小学校の子どもたちに大歓迎された子どもたちは、とても嬉しそうで、親としてほっとしました。朝、校長室で待っているときに、すりガラスの扉の向こうに様子を覗こうと来た野上小の子どもたちの頭が鈴なりに見えていて、「二十四の瞳の映画みたい」と可笑しかったこと。3人が初めて学校から帰ってきたときも、沢山の友達を従えて、帰ってきた途端「遊びに行ってくる!」と元気に飛び出して行って、「ああ、良かった。」と思いました。
 もう3学期も終わりの時期だったので、春休み前に通ったのはたった3日間だけでしたが、この3日間は大きかったです。おかげで子どもたちに友達ができ、春休み中、毎日遊ぶことができたのですから。
 あたたかく迎えて下さった役場の方たち、教頭先生を始め学校の先生方、すぐに仲良くしてくれた子どもたち、服や学用品を集めて届けて下さった父兄の方たちに、心から感謝しています。


2. 平和教育

 ここからしばらくは母の話になります。「避難とどう関係があるの?」と思われるかもしれませんが、母との関係を抜きにした今回の「避難」はありえなかったので、しばらくお付き合い下さい。
 私が避難できたのは、もと旦と長男が背中を押してくれたからですが、そもそも放射能が危険だということを知っていたのは母の平和教育のおかげです。
 母は昭和6年生まれで第二次世界大戦を経験しています。少女時代は学校の軍国教育を素直に信じ、「日本は勝つ。」と言うと、祖父は紀伊水道を飛んで大阪方面に空襲に行く敵機の数を数えて、「行きと帰りとで敵機の数は減ってないやろ。何機撃墜という大本営発表はウソや。」と言い、それに対して母は「神風が吹くから勝つ。」と言って、二人は激しい議論を闘わせたと言います。また、弾にする鉄が不足し家の鍋や釜まで供出させられたことに、祖父は「こんなんでは負ける。」とはっきり言ったそうです。祖母は「あんまり大きな声で言わんといて。近所の人に聞こえたら大変や。」といさめたと言います。
 女学校2年生で敗戦を迎えた母は、祖父に「ほら見ろ。わしの言うた通りやないか。」と言われ、ぐうの音も出なかったそうです。昨日まで「鬼畜米英」と叫んでいた学校の教師が180度変わり、「民主主義」「アメリカの言う通り」と言うようになり、今までの教科書に墨塗りをさせられ、母は教師に不信感を持ったと言います。それに対し、「戦争は負ける」と言うと捕まるような時代に、冷静に事実を観察して自分の意見を曲げなかった祖父を母は尊敬していました。
 母は戦後「絶対に戦争はいけない。」という信念を持ち、私にも子どもの頃から戦争体験を描いた本や漫画をたくさん読ませてくれました。私は幼稚園の頃から広島の原爆の被害を描いた『はだしのゲン』という漫画を愛読していました。主人公のゲンと周りの人たちが悲惨な状況にあいながらも、「ふまれてもふまれても強くまっすぐにのびる麦になれ」という父の教えを忘れず力強く前向きに生きていく姿が大好きでした。
 小学生の頃は、『東京大空襲』『戦艦武蔵のさいご』『ガラスのうさぎ』『二十八年目の卒業証書』『妹』『ひろしまのオデット』『お菓子放浪記』『ベトナムのダーちゃん』などの本を愛読していましたが、中でも『碑(いしぶみ)』という本は繰り返し読みました。『碑』は、原爆で広島二中の1年生322人と4人の先生がひとり残らず全滅した様子を、一人一人遺族の方たちに聞き取り調査をして記録に残した本です。悲惨な本なのに私が何度も読んでしまったのは、「事実の重さ」に心を打たれたからだと思います。
これらの本を読んでいたおかげで、原爆が落ちると火傷の熱傷や爆風での外傷などで大勢の人が亡くなるが、外傷は一つもないのに何か月も何年もして亡くなったり、原爆には遭っていないのに後から広島に入った人たちが亡くなったりする不思議な現象があり、それは放射能の影響だということ、放射能は人を殺すだけでなくだるさや体が弱くなるという病名のつかない状態(いわゆる「原爆ぶらぶら病」)にさせることも、そしてそれが何十年も続くことも知ることができました。
 ただ、チェルノブイリの事故の時は写真展を観に行ったくらいで、離れている日本で深刻な放射能汚染はおきないだろうと安易に考え、あまり関心を持つことはありませんでした。思春期まっただなかで(恋愛など)他に興味を持つことがいっぱいありすぎたせいもあります。
 でも、家庭の中では、好奇心の塊の母が、関心を持っている環境問題や沖縄の基地問題、政治や経済、文化などありとあらゆる社会問題を話題にして熱心に話していたので、私も自然といろんな問題に興味をもつようになりました。また、母は毎週のようにお芝居や音楽会に連れて行ってくれたので、芸術を通じて人間の素晴らしさ、感動を味わうことができました。
 大学生の時には、入ってた手話サークルで知り合った脳性まひの友人の紹介で弁護士さんと知り会い、その方が弁護団長を務める薬害エイズのHIV訴訟のお手伝いをしたことがきっかけで、5人の他大学の学生仲間と「HIV訴訟を支援する学生の会」を立ち上げました。私は何年か活動しましたが、司法試験を受けるための勉強が忙しくなると母の方が支援活動に熱心になり、厚生省を取り囲む人間の鎖にも母は参加しました。人間の鎖は菅直人厚生大臣(当時)の謝罪や訴訟の和解に結び付き、一定の成果を上げました。
 このような母の姿勢と有形・無形の教育とが私に大きな影響を与えたと思います。母のおかげで「放射能は危険。戦争は絶対に駄目。」という根源の感覚、そして社会問題に対する眼が養われたと思います。

3.「ここは私の家よ!」

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 母にはとても感謝しているのですが、ただ、私と母との関係は、一筋縄ではいかないところがあるのです。母をむやみに傷つけたくないので、どう表現したらいいか困りますが、とにかく機嫌が変わりやすく激しい母の性格と、良好ではなかった両親の関係もからんで、幼い時から母と良好な関係を築けていたとは言えません。父と性格や体質が似ていた私は母と合わなかったらしく、大学生の頃まで毎日母に怒られて泣いていました。その頃、毎日新聞の『万能川柳』に投稿して採用された川柳があります。
「こんなにも 涙出 トイレ 行く不思議」。
 母は「叱る」「注意する」ということができない人でした。その代わり近所中が聞こえる声で叫んだり怒鳴ったりし、とことんまで追い詰めました。よく数時間正座させられ、体中に針を刺され、「痛いか?肉体の痛みなんて私の心の痛みに比べたら大したことないんだ。心の痛みを知れ。」と言われたり、「何度言っても聞けないお前は精神異常者だ。黄色い救急車がお前を迎えに来て精神病院に入院させられる。ほら、あの救急車の音がそうだ。」と脅したり、「お前は私の子じゃない。戸籍から抜いてやる。すぐに家を出て行け。」と言われたり。いったん怒り始めると数時間から数日は怒りが収まらず、島尾敏雄の『死の棘』を読んだときは「この妻は母と全く同じだし夫の心境は私の心境そのものだ!」と思いました。包丁を持ち出して「お前を殺して私も死ぬ!」と言ったり、皿から土鍋から椅子から掃除機まで投げつけられたりすることもよくありました。

 母の機嫌が変わり始めたのは確か和歌山に到着して3日目でした。着いた当初は母も「無事着いて良かった。よくここまで運転してきてくれたね。ありがとうさん。」「和歌山の家があって良かった。」と感謝の言葉ばかり口にしていました。
 でも、避難をきっかけに私や孫たちと突然同居することになり、また、生活環境も急激に変わったことに、高齢で認知症の出てきた母の精神はついていけなかったのでしょう。母はだんだん怒りっぽくなり、子どもの声がうるさい、歩く足音が大きい、テレビが耳障りだ、と何かにつけ文句を言うようになりました。
 着いて4日目の朝5時前に、静かな、しかし妙に腹の据わった声で「育子さん、こちらへいらっしゃい。」と母の部屋に呼ばれました。
 もう40年つき合っている母ですから、話し出す前の態度で分かります。「あー、来たわ。」と思いながら、母の話を聞きました。母は、「この家は私の家で、あなたたちの家ではありません。あなたたちがいるとうるさいし、狭いし、私は小さくなって暮らさなくちゃいけない。だから、どこでもいいから出て行って下さい。出て行かないなら、私は首をくくらなくてはいけないが、そうはしたくないし。」と言いました。母は、何度も「ここは私の家よ。」と言いました。
 私は、子ども3人を抱えて簡単に家を出ることはできないし、そもそも、あんな大変な思いをして避難をしてきて、また移動する気は起きないので、「家を出るのは無理よ。」と言いました。
 母も、「私も無理。あなたたちと暮らすのは無理。」と言い、「お願いだから出て行って。」と土下座をします。「あー、子どものときから何度も見た光景だな。」とため息をつきながら、「無理なものは無理だから、いくら言われても出ません。」と答えました。
 「なんでよ!なんで出て行かないのよ!」
 「だって子どもたちがいるもの。簡単に出られるわけがないでしょう。」
 「じゃあ、私に出てけって言うの?私に死ねって言うのね。」
 「そんなこと言ってないよ。」
 「言っているのと同じよ!」
 子どもの時から何千回と繰り返した会話が蘇りました。
 今までかかりつけの病院や友人とのつきあいがあるから都会暮らしが良い、と千葉を離れなかった母が、和歌山に戻ってきてみるとふるさとの居心地の良さに気がついたのでしょうか。それとも自分の家なのに私たちが我が物顔で居座るのが気に食わなかったのでしょうか。私は自分でも身勝手だと分かりながら、「同居が嫌なら千葉に戻ったら。」と言いましたが、母は「私の家に私が住んで何が悪い!」と言い、話は平行線をたどりました。
 
 母は、親戚や近所の人に言い歩くようになりました。「あの家は私の家なのに、娘たちが居座っている。いっそあの家がなければこんな嫌な思いをしなくてすんだのに。」「あの家を売れば、娘たちは出て行ってくれるだろう。あの家を売って、どこか借りて住みたい。どこか借家はないか。」無茶苦茶な論理でした。
 母は不動産を扱ってる近所の知人に「私の居場所がないからこの家を売りたい。売ればいくらになるか調べてほしい。」と頼みました。知人はすぐに調べてきて、この町の路線価は高いから早く売った方がいいと母に進言しました。
 しかし母は、娘たちが居座っているので売れないのでどうしたらいいかと相談したようです。知人は母のいない時に来て、私に話をしていきました。「お母さんがこの家を売ると言ってるんやけど、知っているか?お母さんは、娘たちが出て行かないので売ることができない、と言って困っている。ボクは娘さんたちが住んだままでも売ることはできる、と言ったんやけど、お母さんは、売った後何年経ったら娘たちが出て行くのかと心配してる。」と言うのです。
 私は、「ここを出て行く気はないので、母が売る、というなら私が買い取ります。」と言うと、「娘さんが買うと言うなら、それが一番いい解決方法やと思う。でも、ここの路線価は高いですよ。」と言うのです。身内同士の取引でも高い仲介手数料を取りたかったのでしょうか。
 私が、「ここらへんの地価はいくらですか?」と聞くと、「そんな質問には答えられません。それはそれぞれの取引で決まる話やから、地価がいくらかとは答えられません。」と言います。
 「それでも、ここらへんの取引の相場というのがあるでしょう。それがいくらなんですか、と聞いているんです。」「そんな聞き方したらあかんわあ。」のらりくらり、しかし、ねちっこく、なかなか話が終わりません。
 なんとか帰ってもらい、母が帰ってきてから問いただしました。母からだけでなく、赤の他人にまで嫌味な態度で家を出ていく話をされ、私は怒っていたのです。
 「あの人にこの家を売るのを頼んだんだって?」
 「いや、売るのは頼んでないよ。何年後か分からないけど、もし、売るとしたらいくらになるか調べてもらっただけだよ。」
 嘘です。この耳で、「売りたい。」と母が言うのを聞きました。
 「もし売るなら、私が買い取るわよ。」
 「いや、身内には絶対売らないわ。」(だって、あなたに住んでほしくないから売るのにというのが顔に書いてありました)
 「今すぐ売るの?」私が怒ったように聞くと、すぐに態度を軟化させました。
 「いや、売らないよ。」
 「じゃあ、あの人には断っていいね。」
 「いいよ。」
 私は知人宅に乗り込みました。嫌味な態度に腹が立ったこと、家の中で煙草を吸い、土間に吸殻を投げ捨てていったことから、抗議をしようと思ったのです。
 知人は母の話が変わったことに驚き、のらりくらりと引き留めようとしました。しかし、煙草の投げ捨ての話をしたとき、ようやく「記憶はありませんが、もしそれが本当だとすれば、その点だけは私が悪いです。」と認め、土地の話がなくなったことも認めました。
 これで解決した、と思った数日後です。
 また知人が家に来ました。母は忘れた財布を取りに東京に行き、千葉の家に居て留守でした。
 知人は、「お母さんが家を売る話をした時点で、早く対応せなあかんと思い、和歌山市内の不動産屋に話を持って行き、仲介を頼んでしまったんや。その後で家を売る話がなくなって、それを言うたんやが、その不動産屋は納得してくれないんや。どうしてもお母さんと娘さんにじかに会って、説明を聞かないと納得できひん、と言うので、会ってくれないですか?」と聞くのです。
 「私や母がその不動産屋に頼んだわけではないから、会う義理はないと思います。」
 「それはそうなんやけど、ボクがなんべん言っても引き下がってくれないんや。ボクの不手際で断られたと謝っても、一度話を聞かせろ、と言うんや。」
 暴力団がらみなのだろうか、と内心不安になりました。後で分かったのですが、実際その人は和歌山のその筋の人と関係があり、地元でもトラブルを起こしていたと聞きました。断っても、ねちっこく同じ話を繰り返し、なかなか帰ってくれません。家には私一人しかいません。何を言っても帰ってくれないので本当に怖くなりました。
 近所の人に相談しようと思い、「じゃあ、考えさせてください。こちらから返事をしますから。」と言うと、「必ず返事をくれるんやね。」と念を押します。「はい。」と答えると、ようやく帰ってくれました。
 すぐに近所の人に相談に行きました。母との関係を他の人に説明するのは難しいので、まだら呆けというか、母の言うことがころころ変わったり、極端なことを言ったりするのは高齢のせいだということにして説明しました。
 彼は、役場の保健福祉課が福祉センターにあるからそこに相談するのが一番いいだろうと助言してくれ、福祉センターに行って職員さんに予め話をしてくれました。彼は、「避難したことだけでも大変なのに、こんなことまであって大変やろう。」と同情してくれました。気持ちを分かってくれたその温かさが嬉しかったこと。
 私も職員の人に同じ話をすると、ちょうど今日、県の消費生活センターで不動産の専門員が相談に乗ってくれる日なので、電話をしたら、と言います。もう相談が終わる時間ぎりぎりでしたが、かけてみると相談を受け付けてくれました。
 相談員さんは、何度も、「実のお母さんですか?お姑さんじゃなくて?」と聞きました。「実のお母さんがねえ。珍しいですね。」と言いながら、「不動産の売買契約を書面で交わしたわけではないから、断るのは自由だし、会う法的義務も全くないですよ。そのことを相手に言って、断ればいいんですよ。」と教えてくれました。私が土地の話を断ったのに腹を立てて、迷惑料を取ろうという魂胆なのだろうということでした。
 家に帰り、知人に電話で、「困ったので役場に相談したら、役場に紹介されて、県の消費生活センターに相談しました。不動産専門の弁護士さんに相談したら、契約を書面で交わしたわけではないから断るのは自由で、会う法的義務もないと言われました。なので、不動産屋さんとは会いません。そのようにお伝え下さい。」と言いました。
 知人は「分かりました。そう言っておきます。」と言って電話を切りました。
 やっと、一件落着です。
 でも、せっかく安心して暮らせる、と思った和歌山で、こんなトラブルに巻き込まれるとは思ってもいませんでした。その後いつも国道沿いにあるその人の家の前を通る度にいつ脅されるだろうかと怖くて仕方ありませんでした。


4.再び「家を出ていって!」

 3月下旬、母が再び私に対峙する形で「あなたたち、今後どうするの?」と聞いたとき、私は「この家に住まわして。もう福島には戻れないから、この家で暮らさせて。」と頼みました。母は渋々という感じで、「分かったよ。」と答えました。
 でも、そのあとも、何度も「家を出て行って。」と言われました。引っ越しの業者や親戚、近所の人に、「庇(ひさし)を貸して母屋を盗られた。」と言い歩きました。
 家の電気の線が古く電力容量が小さいので、家じゅうのコンセントを抜いても炊飯器を使うだけでブレーカーが落ちてしまい、電気工事をせざるを得なかった時も、電話線の工事でNTTが家の敷地内に電柱を立てた時も、母は工事に来た業者さんに「ここは私の家です!勝手はさせません!」と宣言し困らせました。
 テレビでの津波の映像を見る度に涙ぐみ、「本当に気の毒に。その点、あんたたちは何も無くしてないから、幸せよね。」と言い、もと旦が福島県郡山市で暮らし続けていることを聞き、「ほかの人たちはみんな福島に住んでいるって。福島は何ともないそうよ。あんたたちはぜいたくなのよ。」「放射能、放射能って言うけど、津波ですべて無くすより大したことないわよ。なぜあんたは住む所があるのに戻らないの。」と私を責めました。
 私が幼稚園の時から『はだしのゲン』を与え、小学生の時には広島・長崎の原爆や第五福竜丸の事件に関する本を与えた母の、あまりの変わりぶりにびっくりしてしまいました。母にとって、目の上のたんこぶの前では、放射能の怖さは忘却の彼方に行ってしまったのでしょう。

 母は千葉県柏市の公団と、和歌山の家とを行ったり来たりするようになりました。忘れ物をしたと言っては千葉に帰り、同窓会のため和歌山に来、歯医者に行くと言っては千葉に帰り、大阪文学学校が週に1回あると言っては和歌山に来、講習会があると言っては千葉に帰り、3月から7月までの5か月間、ひと月になんと2回、千葉と和歌山を往復しました。新幹線と在来線、バスやタクシーを乗り継いでの往復です。80歳で月に2回も千葉と和歌山を往復する体力があることには「スゴイ!」と尊敬の念を禁じえませんでしたが、同時にお金もかかることです。
 千葉の公団では家賃を払っています。家賃と新幹線の往復でお金があっという間になくなったのでしょう。7月になり、私に和歌山の家の家賃を払ってくれ、と言ってきました。周りの人に聞いたら母の家だから娘がお金を出すのは当然だと言われた、と言うのです。「そんなことを言う人っているの?」と思いつつ、「家賃じゃなくて、親が高齢になって収入がないから、子どもが養う意味で親にお金を出す、というのがふつうでしょ。そういう意味でなら、お母さんがお金に困っているなら振り込むけど。」と言って、お金を振り込みました。
 でも、差し迫った必要もないのに気軽に新幹線で月に2回も往復し、それでお金がなくなったからと言って私が母にお金を渡していたら、きりがないと思いました。母は、千葉の団地を引き揚げて和歌山の家に帰ると言っていました。そのためには、あの物であふれかえっている部屋を片付け、整理しなくてはならないはずですが、進んでいる様子はありませんでした。
 私は、7月に和歌山に戻って来た母に、「住まない公団の部屋に5万円以上払っているのは無駄遣いでしょう。お金を払うのならちゃんと住んで、引っ越しのために片づけに専念すればいいのに。月に2往復もして私の月給以上のお金を使って、そのお金を『私に払って。』と言うのはお門違いだと思う。そんなやり方をするならもう私は払わない。」と言うと、「分かったわよ!」と私が振り込んだお金を叩きつけるように置いて千葉に帰って行きました。

 しかし、10月の半ばになってまた、「あなたたち、いつ出ていってくれるの?」と電話がかかってきました。今度は、お金がなくなったので和歌山の家を売りたい、ついては私たちが住んでいると売れないので、早く出て行ってほしいと言うのです。
 またか、とため息をつきつつ、「子どもがここの生活に馴染んでいるから、もう引っ越しはしたくないの。出て行く気はないです。」と言うと、「そこは私の家よ!私の財産を、私が売ろうと何しようと勝手でしょ!」と母は叫びました。
 「あんた、私の家がタダだから住んでいる、と言ってたわよね!」と言うのです。母に以前、「なんで出ていってくれないの?」としつこく聞かれたときに、「避難と引っ越しで何十万もかかってお金がなくなってしまったの。ほかで家賃を払って住むお金も引っ越しのお金もないからよ。」とは答えましたが、そんな文脈では言ったつもりはありません。そう言っても、「あんたは覚えてないかもしれないけどね、あんたはタダだから住むって言ったわよ!」と鬼の首を取ったかのように言うのです。
 私がこの家に住んでいる限りはずっと「出て行け」と言われ続けるんだろうな、それならここを出て母と縁を切った方がいいと思い、「分かった。出て行くよ。その代わり、もう孫とも会わせないから。それでいいね。」と言うと、「ああ、いいわよ。どうぞ!」と売り言葉に買い言葉で母は答えました。
 せっかく馴染んだ家、おじいちゃん、おばあちゃんに守られている気がする家を出るのは気が重いし、子どもたちも可哀そうだと思いましたが、母に嫌な思いをさせられるのを断ち切るためには引っ越しをするしかない、と思いました。
 次の日、役場に行き、町営住宅や貸しバンガロー、町内の空き家のことを聞いて、いい物件があったら教えて下さいと頼みました。友人たちにも声をかけました。
 母に、出て行くことを決めたと電話で伝えました。すると母は、「なんで?お願いだから、住んでよ。」と涙声で言うのです。「孫と会わせない。」と言われたのがショックで、病気になったと言います。
 そして、母は、「私、明日そっちに行くから。あなたと話したいから。」と言ってきました。
 「もう、無理!」と思いました。どんなことがあっても、母を受け入れる気持ちにはなれませんでした。
 子どもたちがまだ小さかったとき、母から受けた虐待や母の怒りがフラッシュバックし、「どうして私はこんなに怒られなければならなかったんだろう。」という疑問で胸が苦しくなり、「自分の中の小さな子ども」がずっと泣いているように思ってきました。また、同じ時期に両親が離婚をし、いろんな意味で精神的に大変でした。奈良から福島に移住した時、あまりの苦しさに一度縁を切ろうとして、母に「あなたから虐待を受けてきた。もう電話も会うのも止めます。」と宣言したことがあります。すると、母は千葉から新幹線で駆けつけて、引っ越したばっかりの福島の家をタクシーで探し回りました。近所の人から母が探していると電話がかかってきて迎えに行くと、「娘に縁を切られた。」と話したのでしょう、変な人を見るような冷たい視線を受けました。
 今まで、何を言われるかわからないという恐怖感で母に逆らえず、思ったことも言えないでいました。母に「明日行くから。」と言われた私は、娘の大会や教育講演会などがあってとても忙しいので今来てもらうことは無理だから、お正月に来てちょうだい、と頼みました。また逆上して来られたら困ると思い、「孫に会わせないとは言わないから。」と言いました。

 母は、千葉の公団住宅が3年以内に建て替える予定なので、建て替え以前に退去してしまうと修繕費用などを取られるが、建て替えの時に退去すれば、立ち退き費用をもらえる。だからあと3年は和歌山の家には住まない、と言い出しました。3年の執行猶予がつきました。
 しかし、この次の年、結局、私は母を千葉から和歌山に引っ越しさせました。認知症が進み、一人にしておけなかったのと、千葉県柏市は放射能汚染のホットスポットになり、母が毎日鼻血を出すようになってしまったからです。
 ここまで母が悪いかのように書いてしまったので、読んでいて不愉快な思いをされた方もいらっしゃると思います。でも、決して母は悪い人ではないのです。
 母は極端なことを言う時が多いですが、とても情の厚い純粋な人なのです。好奇心旺盛で行動力があり、情熱いっぱいの母のことをとても尊敬しています。ただ、感情のコントロールが難しいところがあり、子供の時から本当に大変な思いをしてきました。母に対する思いは複雑なのです。
そして母はこの時、震災、避難と、突然の同居生活に精神が耐えられなかったのです。私も思いやりが足りず、今までのことを恨む気持ちからきつい言葉をかけがちでした。また、母自身もさっき言ったことも覚えていなかったり、探し物ばかりするようになったりと、自分の老いにとまどっていた時だったので、なおさら私や孫たちの気を遣わない、時には馬鹿にした態度に腹が立ったのでしょう。
 離れていると、一人でがんばって生きている母を愛しく想う気持ちがわいてくるのですが、目の前で「この家を売る。やっぱり家族を解体したほうがいいわ。」と言われると、修行不足の私はかっとなって、「わかった。私たちが出て行けばいいんでしょ。これで縁を切りましょ!」なんて言ってしまうのです。本当に、母との関係は常に悩みの種でした。
 11月から、被災者支援のつどいで教えていただいた臨床心理士の方のカウンセリングに行くようになりました。お陰で気持ちがスッキリとしてきて、母にも優しい言葉をかけられるようになりました。また、この手記を書き始めたのもこの頃で、臨床心理士の方に読んでもらってとても真摯に共感して下さったお陰でかなり辛い思いが昇華されました。母の「躾」や母との関係を聴いた彼は、「いつリストカットしたり鬱に罹ったりしてもおかしくない生い立ちですね。よくぞ今まで無事に生き抜いてくれましたね。貴女がこんなに強く生きてらっしゃるのは驚きです。」と言ってくれ、聞いた私は涙が止まりませんでした。
 私の友人家族も、震災をきっかけに夫の家族から家を追い出されました。子供達もいるのにです。震災では、「絆」という美しい言葉とは裏腹に、今まで隠れていた人間関係のひずみや人間の本質が浮き出てくることが実感できたような気がします。

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