ペルーでの日々の記録_2

知らぬうちのルーティンと忘れられない記憶

任地296日目。木曜日。

知らないうちに身についたルーティン。というか、これをしないと気持ち悪いと感じるようになった習慣。

まさかの、この「noteを書くこと」です。

TwitterでもInstagramでも近況報告は全然満たされなくて。

別に承認欲求のためにやっている感じでもないからなおさらなのかもしれないけれど。


向き不向きとかはないと思うけれど、私はやっぱりSNS向いていないんじゃないかなって思ったりする。やっぱり肖像権とか気にしちゃったり言葉のあやとか気にしちゃったり炎上とかもなんか怖いし居場所特定とかもよくないしとか、そういうのがあったり。

一昔前のSNSはというかその時はInstagramはあまり有名でなかったからTwitterの話だけれど、みんな着飾らないそのままの「わず、なう、うぃる」を書いていたしだからこそ私にとっては面白かったのだけれど、今は戦略的なのが多すぎてみんなツイートが似ててつまらなく感じることは多いし、フォローしている人がいいねしたやつとかフォローしている人がフォローしている人のツイートまでが回ってくるのは結構意味わからないし、笑

多分私はあまり着飾るのが見るのもするもの、好きじゃないんだろうな。人間、完全な人なんていないのに、みんな不完全な部分隠すじゃん。あれはなんでなの??って思ったり。

完全ってつまらないよね、だから「完全」であふれた現代のSNSがつまらなく感じるのかなと思う。まあこれは完全に私個人の意見です。


ただSNSといえども、noteだけは結構はまっていて、noteを介して出会う人にもはまったりしたり、毎日記録をとらないのはもったいないと思っているうちにそれがルーティンになっていたみたい。

昨日とかも更新しなかったんだけれどなんか落ち着かなくて。note病?やばいかな?笑


何かを整理するというのが今の私にとってはnoteで行われていて、1日のどこかで何かを整理するのって大切だと思うから、noteが私にとっては大切なんだなと思う。

これは紙の日記でも個人的にパソコンに保存するWordでもいいのかもしれないけれど、私がnoteに書くのは、紙だと筆圧が強いから手がつかれるからで、WordでないのはWordはどこ行ったか分からなくなるから。

また、こんな文章力のない、不完全人間のnoteがもし誰かの参考になったりお役に立つなら願ってもないし、そもそもweb上に公開することによって、誰よりも私がいつでもどこでも見れる。

そして、クリエイター向きに作られたnoteはやはり書きやすい。

これらが私がnoteを選んで記録を残す理由。

ルーティンになってしまったみたいなので(スペイン旅行とその時差ボケでだいぶご無沙汰にはなっているけれど)、今後も引き続き、よろしくお願いします。


ところでタイトルのもう一つ、記憶の話。

忘れられない記憶ってありますか?

それはあなたにとって、いい記憶ですか?悪い記憶ですか?

私はたくさんのいい記憶があるけれど強く思い出されるのは残念ながら悪い記憶です。

「誰かを傷つけた」と感じる記憶。これが私の中では強い記憶となって残る。

意図的でなくても傷つけてしまうことってある。

人を傷つけずに生きるのは、私はほぼ不可能だと思う。なぜなら、何かの裏側には何かの表側があるから。そしてこの地球上の70億人がそれぞれに違った背景や違った思いを持っているから。傷つけないようにと生きると何も言えなくなってしまうんじゃないかなと思う。

でも人を傷つけることを避けたりそれを減らすことはできると思っている。私もできるなら人を傷つけるのを避けて生きていきたいです。

しかしながら「そんなつもりではないのに」とおそらく傷つけてしまったこと。あとから他の人に、あれはないんじゃないかなって言われて初めて気付いたこと。そういうのは多くないけど実際にあって、そういう記憶だけはどんなにうれしい記憶よりも心にずっと残っている。多分今後も忘れられないんじゃないかなーと思う。

傷つけられるよりもつらいのは人を傷つけることで

私にとっては傷つけるくらいなら傷つけられるほうがましで、そのほうが心の傷は少なくて済む。誰かから傷つけられたときより、誰かを傷つけたときの方が、心の傷は私にとっては深い。それは十五年以上前から、知っていたんだけどね。

そして27歳になった今でもまだ学びが浅く、今回も誰かのことを傷つけてしまっていないか、そのことが気がかりでかなり落ち込んでいる。また忘れられない記憶を私は増やしてしまうみたいです。


少し話が変わるけれど、

昔から自分より他人、で生きてきました。きっと3人姉妹の真ん中で育った時から。

自分の感情より人の感情。自分は我慢すればいい、そんな風に。

誰かが喜ぶのは自分が喜ぶよりもうれしかったし、

誰かが傷つくのは、自分が傷つく以上に見ていられなかった。小さなことから、大きなことまで。

でもそうやって他人他人と目を外にばっか向けてしまって、肝心な自分自身が孤独になっていることにほんの数年前気付き、そこからは自分のことをいたわりつつ、残った余裕の部分で人と合わせたり人の感情に寄り添うようになるべく意識を変えるようにしてきてはいます。
自分を大切にできてからはじめて、本当の意味で誰かを大切にできるんじゃないかなと思うんです。

でも育った時の感覚や感情というのはそんなに簡単に変わるものではなく、結局時によっては自分に余裕がなくなるくらい人に気持ちをかけてしまうこともある。これはたぶん実は結構やっかいなものなのではないかと。

そしてそもそも、どんなに自分を大切にしていても誰かが傷ついた時に自分も傷つくのは避けられないしやっぱりそれは別問題なのかなって思ったり。


自分のことを大切にできない自分が出てくるのはやっかいだし、ちゃんと自分もいたわってあげようと思うのですが、人を傷つけたかもしれないという心の痛みはきっと次に人をなるべく傷つけないような行動につながると思うので、猛省をしつつ、どっちの気持ちも大切に過ごしていこうと思います。


ということで、

また毎日noteルーティンとして書いていこうと思います。

それでは。

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いくみ 
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