山本未希「かしこくて勇気ある子ども」
この本は、私と同じように3人の子供を持つ同僚から教えてもらった。「かしこくて勇気ある子ども」というタイトルと、赤と黒と白のコントラストがくっきりとした表紙。絵本らしさがありつつも、大人向け。中を開くと、いきいきとした表情の女性が産婦人科の前で何かをじっと見つめている。そこに夫がやってきて、彼女は夫に目の前を指し示す。彼女が見つめていたのは、二人の女の子がかけっこしながら横断歩道を渡ってくる様子だったことが分かる。その後で、彼女は自分を指さして、おなかの中にいるのが女の子だと分かったことを告げる。
子どもを授かった経験のある人なら、このシーンだけで自分たちにもあったそういう瞬間のことを思い出して泣いてしまうかもしれない。
これは、夫婦が子どもを待ちながら、どんな子どもになって欲しいか、楽しみにする気持ちが描かれている。どんな習い事をさせたいかリストを作ったり、11歳から女の子の教育のための活動をしているマララ・ユスフザイさんはじめ、世界中の立派な子どもたちが紹介されている本を買って、こんな子になって欲しいと思ったり。多かれ少なかれ、子どもを授かるとそういう妄想をしてしまうのは、よくあることだと思う。
けれども、この本の醍醐味は、そこからの展開だ。マララ・ユスフザイさんが頭部を銃撃された事件をきっかけに、生まれてきた子供が無事に育っていくとは限らないという現実を突きつけられる。今まで考えたことのなかった不安を感じて、彼女はいてもたってもいられなくなる……。
同僚からその本を借りることにした私は、なんとなく自分自身がどんな風に子どもたちと出会ったのかということをすっぽりと忘れていた。彼女の話を聞いて、ちょっと考えさせてもらえる本なのかな、くらいに考えていた。
でも、そんな風には読むことはできなかった。どんな子どもになって欲しいか、というあたりから、もうどうしようもないくらいに涙が止まらなくなった。私たちの一番上の子は、ダウン症だ。だから、生まれたその日の夕方、勝手に想像していたどんな子になって欲しいと願うことが叶えられないことなのだと知らされたからだった。気楽に読める本じゃなかったなと、ちょっと思った。
正確に言えば、潔く諦められたわけではない。療育をすれば、一生懸命育てれば、色んな事ができるようになるかもしれない。そう思った。私は図書館の検索システムで、ダウン症というキーワードでひっかかるあらゆる本を次々と読み漁った。ベビーカーを押して、家から10分くらいの公民館に行き、予約した本を借りては、長男が眠っている間に読みふけった。四大卒の子もいると知ると、うちの子もそんな風になれるんじゃないかと期待した。でも、少しずつ、うちの子はそういう子じゃないんだということを認めざるを得なくなった。はっきり言って、ダウン症の子ども達の中でもかなり重度の知的障害だった。10歳になった今も、まだおしゃべりの準備中だったりもする。
生まれたその日の夕方から、どんな子になって欲しいということを諦めたこと、色んなことを受け入れなければいけなかったこと、彼が何を考えているのか分からなくて、悲しいこと、弟や妹に色んなことを抜かされたときに、ちょっと寂しそうな顔をするのに気付いても、どうしてあげることもできないことがつらかった。
私は、彼に教えてもらったことはたくさんある。生まれたその日に、どんな子に育ってほしいという夢を壊された代わりに、彼と私は別の人格なんだということを理解することができた。うまく言えないけれど、自分の思うようにならないことは当たり前のことであって、彼は彼の人生を生きていくのだということだ。もちろん私は母親として、父親と協力して、いろんな面で支えていく。でも一番大事なのは彼がどうしたいのか、ということなのだ。そのおかげで、弟や妹に対しても、最初から同じような気持ちで接することができている。
本の二人は、悩み苦しんだ後で、どんな子どもに育ってほしいか、という明確なイメージを手に入れる。とても大切なことだと思う。そしてかなり嬉しかったのは、うちの長男も、これに近いことはかなりできているかな、と思えることだった。生きていく上で実は一番大事なことで、それさえあれば幸せになる土台ができたと言えるのかもしれない。
同僚はこの本の感想について、全く違うことを話していた。そんな風に感じることについても、自然なことだと思った。きっとこの本は、読む人の人生やその時一番願っていることと重ね合わさって、色んな読み方ができるのだと思う。そして子どもを授かっていない人も、きっと、こんな風に自分は生まれてきたのだろうと思うことができるかもしれない。この社会の中で人間として生まれて生きていくということで、一番大切なことが、ここに書かれているのだと思う。
この本を読むことができて、良かった。