いしかわゆき「自分と人生が変わる一番大切な文章力 書く習慣」
書くための本はいろいろあるけれど、その中で、最も柔らかくて暖かい本なんじゃないか、と思った。ほらやってみようよ、と著者の優しい声が聞こえてくる。そんな感じ。上手に書けるようになるための本じゃなくて、副題にあるように、自分と人生を変えるための本なのだ。書くことで変えたいと思っている人はたぶん、言いたいことがやまほどあるのに言い尽くせなくて、理解してもらいたいのに理解してもらえない、と思っている人だ。だからそういう時には、この本がすごく心にしみてくる。
この本を読むきっかけになったのは、著者のゆぴさんが企画した「2022年、『書く習慣』はじめてみない?」に参加したことだ。10日間分のお題があり、新年書くチャレンジのハッシュタグをつけてSNSに投稿しようというもの。この本もゆぴさんも知らなかったのだけれど、同業者のライティング仲間のFacebookグループで共有されていた。私もチャレンジしてみた。グループ内で宣言したから、というのもあり、10日間どうにかチャレンジすることができた。グループのメンバーはすべての記事を公開していた方もいた。私はそもそも最初から全部公開するのは無理だなと思って、noteではなく、Facebookで書いた。しかも、10日のうちのいくつかの話題については友達限定にしてしまった。ちょっとネガティブも含まれる話題を出すのはどうかな、と思ったからだ。たまにFacebookでは友達限定でそうした個人的なことを書いているから、限定ならいいかなと考えた。
でももし先にこの本を読んでからチャレンジしていたら、限定記事にしなかっただろう。
書いたものについてどう評価するか、ということは自分が決めることではない。こんなことを書いても誰にも役に立たないかもしれない、というような記事が、誰かの目に留まって、読んだその人がこういうこともあるんだな、と思うことがあるかもしれない。だから書いてしまえばいいんだ、というのがゆびさんの意見だ。
もちろんお金を受け取って書いているのなら、相手に対してメリットがあるものを提供しなければいけない、という責任を感じることもあるかもしれない。けれども、SNSもブログも、お金をいただいて投稿しているわけではない。だとしたら、こんなことを書いて良いか悪いか、ということを自分で決める必要はないのだ。もちろん、誰かを傷つけるようなことは書いてはいけないのだけれど。
もし、書きたいという思いがあるのに、自分が書くことは意味があることかどうか、ということを考えなければいけないとしたら、突き詰めていけば、自分は存在していいのか、ということになる気がする。どんな人も、完全に存在感を消すことはできない。誰かの網膜に映り込み、立ててしまった音が誰かの鼓膜を刺激する。ちょっと大げさかもしれないけれど、この本を敢えて手に取る人は書きたいという気持ちを持っているのだ。だからその人たちには、書いていいよ、という言葉が必要になるのだと思う。
私も「書きたい」気持ちがいつもある。書いて読んでもらって、さらに読書ブログだから本も読んでみて良かったよ、と言ってもらいたいという気持ちがある。けれどその根っこの気持ちは、誰にどうとかそういう気持ちはない。とにかく書きたいのだ。次男はすごく小さい時に本当によくしゃべった。あまりによくしゃべって止まらないので「どうしてそんなにおしゃべりが止まらないの?」と訊いたら、「頭の中に写真がいっぱいあるんだよ」と答えてくれた。今はおしゃべりではなくて、漫画を描くことにはまっているけれど。私もそれと変わらない気がする。
本の最後には、「書く習慣」1ケ月チャレンジとして、30日間のお題リストが挙げられている。そして、ただ発信するだけではなくて、たくさんの人に読んでもらいたいと思う人のために、「読まれるコツを実践してみよう」という項目があり、本書のどこを参照すればよいのか、ということも書かれている。もちろん書きたくて書きたいのだけれど、誰かに笑いかけてもらったり相槌を打ってもらいたいのと同じように、読んだよ、が欲しいのは、間違いない。今度は10日ではなく、30日にチャレンジしてみようかな。