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王谷晶「40歳だけど大人になりたい」
このタイトルは許されても、「50歳だけど大人になりたい」はさすがに許されないよな、と思います。自分が大人か、と言われたら、そうとは言い切れないな、と思っていたので、このタイトルにとてもひかれるとともに、もうそんなこと言ってられないのかな、と考えたりもしました。
自分がほぼ50歳とはいえ、まだそこに足を踏み入れていないから、50歳になればもう少しマシになるだろう、という期待からそう思うのか。40歳は言ってよくて、50歳は厳しいかも、と思う理由は自分でもよく分かりませんが。
というわけで読み始めたのですが、軽い語り口のようでいて、一つ一つの言葉の使い方がとても分かりやすくて、ぐんぐん読めてしまいました。
ぶっちゃけ、大人かどうかってことを考えたときに、ああ、年配の人って結構子どもに戻るよな、ああはなりたくない、と考えていたことを思い出しました。そんな感じの話も出てきます。なかなか過激な語り口なのですが。
大人の顔をしている人、というのはたくさんいます。でも、家で見せる顔はそうじゃないのではないか、というのはよく感じるところです。それは外の顔で、家に帰れば違うんじゃないか、みたいな。
つまり、一番身近な大人である、母と父を見て、そう考えていたから、そういう目で人を見てしまうのだと思います。
親のこんなところが苦手でした。
例えば、相手の話を理解しないで、自分の考えばかり押し付ける。
自分が間違っていることが分かっても、言い訳ばかりして、自分の非を認めない。
もしかしたら私が、子どもだったから、なのかもしれません。でも自分は、絶対にそんな大人にはなるまい、と子どもごころに思いました。
母が専業主婦で人付き合いが苦手だったこともあり、そうならなければ私は大人になれると考えていました。冷静に考えれば、仕事に出ている父も子どもっぽいところもあったかもしれないのですが、やはり自分と同性の親に自分の将来を重ねて考えることしかしなかったような気がします。
その頃の母の年齢をもう過ぎたわけですが、たぶん、母よりは大人になっているのではないかなと思います。
自分の子どもに対しても、子どもの話を聞こうと努力しています。
間違っていたことに気付いた時は、ごめんね、と謝ります。
でもそれは「母よりは大人」というだけであって、何かこう、うまく表現できないのですが、自分は大人じゃないな、と感じていたのです。
例えば、組織の中で動いてないと、何にもできないな、とか(そのくせ組織に染まりたくないとか思ってるんですけど)。
王谷氏は文筆業でフリーランスです。もちろん編集者がいたりするわけですが、組織に属さずにも生きていけるって、それだけで私から見たら大人です。書くことで稼げることってすごいな、と思っているので、かなり個人的なバイアスがあるかもしれませんが、なんか変わっている感じだけど、甘えとかなくて、だいぶ大人だな、という印象を持ちました。
自分で入れた刺青があるとか、ピアスをたくさんつけてるとか、服装がすごいとか、BLが好きとか、いろいろ驚くような感じなのですが、言っていることはすごくうなずけて、しかも、実はこの方、結構大人なんじゃないか、既存の大人感に対してモノ申してるだけなんじゃないか、という気もしてきます。
耳にたくさんピアスをつけている写真を発見しました。
自分の状況と折り合いをつけて、責任をもって、生きていく、それが大人なのかな、というのを感じました。自分がどこまで責任を持てるのかをちゃんと考えて生きる。これくらいなら、できそうな気もするし、でも実は簡単ではなかったりします。
とはいえ、だいぶ大人の定義が広がったというか、別に今のままでもいいんじゃないか、って、ちょっと肩の力が抜けました。
最後に終活の話とかも出てきたりして、ああ、大人になると次はこれなんだよな、と思ったりしました。これも、責任を持つ、ということの一つなのかもしれません。