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ツインレイに出会った人に共通する使命はライトワークをするなどではなく


「ツインレイに出会った人は使命に向かう、ライトワークをはじめることになる」

とはこの界隈でよく目にするフレーズのひとつかと思いますが、

わたしが感じているのはなによりもまず「ツインレイに出会った人の使命とは、ほんとうの自分へ還ること」ではないかということです。

スピリチュアル的なにかを始めるとか、そういったことではなく。

お相手との決定的な別離・サイレント期間を経験することで、

「ほんとうは自分はどうしたいのか、どうありたいのか」を

望まない環境や状況から徹底的に問われ、また自らもひたすらに問うていき、その先で出会う「ほんとうの自分」として生きるようになること。

それこそが使命だと思うのです。

(その先の選択として、スピリチュアルな仕事に就かれることはあると思います。これは順序のお話です)



さいきん、ふらっと立ち寄った書店で目についた本があったので購入しました。

普段はKindleなので紙の本を買うのはひさしぶり。

電子書籍は仕組み上、自ら検索行動を起こさないと商品が表示されませんが(おすすめ的な形でずらっとタイトル・表紙が並んではいるけれど)、

書店にはあらかじめ本がずらーっと並んでいるので、自分の潜在意識にアクセスしやすいなぁと思います。

というのは、思いもよらない本がぱっと目について惹かれることがあるからです。

おそらく無意識に心に留めているキーワードやテーマがあって、それに合致したものが浮かびあがって見えるのかと。

エンジェルナンバーも同じような仕組みで、スピリチュアルでもなんでもなく、エンジェルナンバーという概念を知った日からやたらゾロ目を見つけるとか。笑

この脳の仕組みについてはまた今後書くとして。

その日、わたしの目に飛び込んできたのは『光であること』というタイトルでした。

正式には『光であることば』なのですが、そのときは赤い帯に「ば」の文字が隠れていて、わたしには『光であること』と読めたのです。

今回はそんな『光であることば』の一部について触れたいと思います。

以下は「よろこびについて」と題された章にて紹介される、エーリッヒ・フロムの『生きるということ』(佐野哲朗訳)からの引用です。

シャバット(安息日)には、人はあたかも何も持ってはいないように生活し、あること、すなわち自分の本質的な力を表現することのみを目標として追求する。
すなわち祈ること、勉強すること、食べること、飲むこと、歌うこと、愛の行為を行なうこと。
シャバットは喜びの日である。というのはその日に人は十全に自分自身となるからである。

『光であることば』(若松英輔 著)-「よろこびについて」

これを受けて著者は『自分自身になる、これ以上の「よろこび」はない』としています。

わたしはこれにいたく共感し感激しました。

今まさにわたしは「よろこび」を追求しているさなかにあって、それが「十全に自分自身になること」であることと体感していたからです。

(安息日に祈りなさい、勉強しなさいということを言いたいのではなく、です。笑)

デジタル大辞泉によると「十全」とは、「少しも欠けたところがないこと。十分に整っていて、危なげのないこと。また、そのさま。万全。」を意味します。

これがたとえば「完全な自分自身になる」なら、なにか自分の不十分さ・未熟さを克服しようとあがく必要がありそうですが、

十全な自分自身になる」という言葉には、不十分さ・未熟さを抱える自分というものを自分として受け入れようとする向きがあります。

つまり「よろこび」とは、なにか完璧な自分を目指して行動する先に「ある」「見出される」ものではなく、

不十分で未熟な自分であることを、今としてじゅうぶんに受け止められる「状態」に「宿る」ものといえそうです。

これに関連して、ゆくゆくは完璧を目指そうとすることが逆効果になるパターンについてもお話しますね。

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