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「わたのはら 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人のつり舟(参議篁)」に泣けた話

高校の国語教師をしていたというのに、
そのうえ「競技かるた部」の顧問だったというのに、
私は百人一首を憶えていません💦

自分が高校生だった冬休みに、
「百人一首の暗記」が宿題になっていて、
3学期のはじめに「確認テスト」があり、
そのときに2日程必死に覚えたのですが、
テストが終わると同時に記憶は飛んでいきました。

仕事上、憶えていないというのも何なので、
「義務感」のようなもので憶えようとしたことが何度かあったのですが、
1番の天智天皇と2番の持統天皇の歌で嫌になって終わってしまうのが常でした。

けれども「国語」が仕事でなくなると、
「百人一首」を憶えたり、
作者や背景を調べたり、
筆ペンでノートに書いてみたりするのが楽しい趣味になりました。

「なぜ書くのか」それは、新品のノートやら、中途半端に使ったノートやらがたくさんあって、
その上、間違って買い過ぎた「筆ペン用カートリッジインク」を使わないともったいないからです。
「1箱6本」×1ダースも買ってしまったのですから😭



わたのはら 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人のつり舟


また前置きが長くなってしまいましたが、表題の歌の話です。

現代語訳と背景

広い海を、たくさんの島々をめざして漕ぎ出して行ったよ、と人には告げておくれ、漁師の釣り船よ。

これだけ読むととてもポジティブな歌に思えますが、実はそうではないのでした。

参議篁(小野篁:おののたかむら)は、遣唐副使に任じられ、出航しますが失敗します。
再び出航するとき、遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したために、篁の乗る第二船と交換されてしまいます。

篁は、「己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法が罷り通るなら、面目なくて部下を率いることなど到底できない」と抗議し、乗船を拒否します。

そして、篁は遣唐使の事業を(ひいては朝廷を)風刺する漢詩を作ります。

嵯峨上皇は激怒し、篁は隠岐国に流罪となります。

「わたのはら 八十島かけて~」の歌は、篁が隠岐に流されるときに詠んだ歌でした😢。


小野篁のはなし

小野篁にはおもしろい伝説がいろいろありますが、厳選して2つご紹介します。

1 小野篁は閻魔大王の補佐係だったらしい

昼間は朝廷で官吏を、夜間は閻魔大王の補佐をしていたという伝説が平安時代末期から鎌倉時代にかけての説話集に数多く紹介されています。
身長が約188㎝で、平安時代の男性の平均身長160㎝に比べると大きかったことも閻魔伝説の理由の一つかもしれません。

小野篁の墓といわれるものは、紫式部の墓といわれるものの横にあるのですが、それぞれが篁の墓、紫式部の墓といわれるゆえんは、愛欲を描いた咎(とが)で地獄に落とされた式部を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説なのだそうです。

2「子子子子子子子子子子子子」は何と読む?

これは『宇治拾遺物語』に掲載があるお話。
小野篁と嵯峨天皇のことば遊びです。

嵯峨天皇が、「無悪善」という落書きを読め、と篁に命じるが、篁は読もうとしない。
それでも天皇が強要したところ、篁は「悪さが(嵯峨)無くば、善けん」(「嵯峨天皇がいなければ良いのに」の意)と読んだ。

天皇は、「これが読めたのは篁自身が書いたからに違いない」と怒る。

すると篁は「私は自分が書いた文章でなくても読めます」と弁明する。

天皇は、「それなら子子子子子子子子子子子子で何と読む?」と問答をしかけたところ、篁は「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解いて、事なきを得る。

「子」の字は、「ね」、「こ」、「し」と読みますもんね。

嵯峨天皇ったら、小野篁を流罪にしてみたり、一緒にことば遊びをしたり、勝手なものですね。

ちなみに、『源氏物語』の光源氏のモデルのひとりである源融(みなもとのとおる)は、嵯峨天皇の第十二皇子です。

小野篁が紫式部を地獄落ちから救ったという伝説は、このあたりから出てきたとも考えられるかもしれません。

『百人一首』、それぞれの歌からいろんな妄想が拡がって、楽しいですね~。
記憶力のトレーニングもできますし、字を書く練習もできますし、老後の趣味にピッタリです😊








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