映画『きみの色』 ブロック塀の色彩について フレーム越しの会話について

色彩について

花びらに光が当たる。光がひらひら乱反射する。花吹雪の条件は、太陽と花と自分の位置関係、花が散り際であること、風が吹いていること。(中略)自分のいるここと目が当面見たあそことの間に、こんなにみっしり空間がある驚き。あるいは、空間を知った歓び。空間が透明でなくなる解放感。

保坂和志『カフカ式練習帳』

何も起きていないようでいろいろなことが起きている。ということが書いてあったのは保坂和志の小説論だったか。

この映画でもいろいろなことが起きている。ささやかにも思えるストーリーに対して、ほんとうにたくさんのことがスクリーンの表面に現れている。べつにそれは深読みが必要だということではなく、要はとても色彩が豊かだということなのだが。

というか、自分にはこの映画を見てそれしかわからなかった。とてもカラフルだ。それだけだ。

この映画ではあまり鮮やかすぎる色塗りはされていないようだ。それが「優しい世界」という印象を持たせるのだろう。

カラフルであるということは、複数の色が一つの画面内に存在しているということである。

山田尚子監督の作品には繊細さのイメージがついて回る。細やかであるということは抽象的な話ではない。画面の構成要素が小さく、細分化されているということだ。

端的に、画面の中に物がたくさんあるのだ。本屋なら本棚に並ぶ本。仮病でベッドに寝ているトツ子を囲むように置かれたお菓子。寮の中庭の花壇に咲く花は、一本一本の茎や葉や花びらが書き込まれているようで色彩の量に圧倒される。

小さいものが集まっていて、それぞれに異なる色が塗られている。ショットごとに基調となる色があるが、彩色は一様でなく、微妙な色の違いを見せている。単色のようでいてさまざまなグラデーションがある。例えば通学路のブロック塀だ。全体として灰白色であるが、ブロックの一つ一つが微妙に異なる色をしている。赤い色まで混ざっている。それらをうっすらと生えた緑色の苔が縁取っている。

謹慎明けで久しぶりに三人で集まった帰り道、夜店で売られているスノードームを手に取ったきみの感情に気付いた時、トツ子の視界に細かい結晶の破片が降り注ぐ。海の波は太陽光を反射して複雑な模様が見える。細かい、小さいものがたくさん集まって(雑然あるいは凝集という印象ではなく)、それぞれに異なる色があり、全体として統一性を持っている。

きみがバイトしている本屋(しろねこ堂)にたどり着くまでにトツ子はいくつも本屋を訪れるのだが、店のそれぞれで基調となる色が異なっている。神保町にあるような古書店は箱入り本の背表紙で茶色っぽいし、新刊書店は明るい照明と書籍の光沢で白っぽく描かれている。しろねこ堂も古書店なのだが、先に出てきた本屋とも微妙に異なり、店内の床や階段の木の色と窓から差し込んでくる外の光が混ざり合った風通しの良さを感じさせる。

この映画に単色の画面はほぼ見受けられない。唯一あったのは物語の序盤、きみの退学を知った時に辺り一面が灰色になったシーンだけだ。トツ子は人を色で見ることができるという設定であるが、彼女の見る世界は抽象的な色の集まりである(その見え方はそれで面白いのだが)。それに対しこの映画の世界の色彩は具体的な細部の集合であり、だから一概にトツ子に見えている世界を表現したとも言えない。

山田尚子監督作品の『リズと青い鳥』では、休日の校舎内で、工事をしているような金属音や、水槽のエアレーションの音や、他の教室で楽器の練習をしている音が画面の外から聴こえてくる。音楽が題材の作品であるが、音楽とは劇伴や演奏シーンとして聴かされるものだけではない。環境に存在する音もまた音楽である、ということが感じられる作品だった。翻って、『きみの色』という作品では環境に存在する色彩に焦点が当てられているのではないか。世界にはさまざまな色がある。一見ささやかな日常のシーンのそれぞれがそのことを気づかせようとしている。色があること、それがさまざまな違いを持つこと。細かな差異のグラデーション、それが彩りである。

きみとルイの色が混ざったことにひどく感動するトツ子。トツ子の見る抽象的な色の世界もまた面白い。意味や物語の手前の形そのものとしてものごとを捉えている。ルイに好意を抱き始めたきみの心を見て、感じた色の変化そのものにトツ子は感動していた。

景色を(映画を)抽象的な色の変化として見る、それと同時に具体的な事物の細やかな差異の集合として見る。『きみの色』は見るということを観客に教えてくれる作品だ。どのような形であれ、鑑賞前と後では世界が変わる。

画面の外に語りかけること

もう一つ、この作品で印象に残っているのは、心理的な距離が近い者同士の会話の切り返しである。

二人の人物が会話をする時、まず、一人が画面の端にいる。例えば右端にいて、右側のフレームに顔を向けて喋る。ショットが切り替わると相手が左端にいて、左側のフレームに向けて言葉を返す。そして両者が一つ画面に収まる。

このような見せ方は親しくなった者同士でしか行われていない。例えば校長室にトツ子ときみが呼び出されたシーンでは校長は画面の左側にいて右側に話しかけている。ここでは画面上の距離が心理的な距離である。

ここでふと思い出したのが同監督の『たまこラブストーリー』だ。幼馴染の二人が道路を挟んで糸電話で会話する冒頭、そして駅のホームで糸電話越しに告白をするラストシーン。

ルイの住む島に初めて船で渡る時のトツ子ときみ。しろねこ堂で対面するきみと日吉子先生。画面のフレーム越しに交わされる会話は糸電話のようだ。距離、何かを介することで示される親しさ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?