ジェイムズ・べニング『アレンズワース』を見た感想
恥ずかしながら作品を全く知らなかったのですが、「アメリカ/時間/風景」という特集のタイトルが気になったので見てみました。
アレンズワースとはカリフォルニア州で初めてアフリカ系アメリカ人による統治が行われた自治体で、第一次大戦後に住民の多くがこの地を離れて荒廃しましたが、現在は残された建造物の修復と復元が行われているそうです。
映画『アレンズワース』は同地で1月から12月に撮影されたそれぞれ5分間の12個の映像によって構成されています。それらの映像に人物は全くと言っていいほど登場しません(例外は、詩を朗読する若い黒人女性と、ある建物の背後を通り過ぎる通行人の中年女性だったと思います)。建築物、あるいは土地そのものが主役の映画であり、観客は動くものも少ないそれらの風景を約1時間眺め続けることになります。
率直な感想としては2つ。これは映画館でなければ集中して見ることができなかった。それから、これは風景写真を眺めるのと何が違うんだろうかということ。
1つの映像につき1つの建物が中心に据えられ、カメラも被写体も動くことなく5分間が経過します。動くものはほとんどない。ただ、「ほとんどない」のであって「まったくない」わけではない。そこがこの映画の見るべきところなのかと思いました。
まず感じるのは意外と音に存在感があるということです。
複数の映像に列車が登場しますが、実際に画面内に姿を見せたのは予告編で使われているショットだけだった気がします。
おそらくカメラの背後、列車の音が近づいてきてまた去っていきます。別のある月の、無人の墓地の映像では、飛行機かヘリコプターのような音が鳴っています。姿を見せずとも映像の中を通り過ぎていくものがあります。
風の音も聴こえてきます。強風に揺さぶられた木の枝が屋根を叩き、無人の民家の上空を雲が吹き流されていきます。
引き算の表現というのか、要素(ここでは画面内の動き)が削ぎ落とされた結果、むしろそれが際立って表れています。写真のようで写真ではない。動いているものがあり、確かに時間が流れている。
この作品はフレーム、もしくは切り取ることの映画だと思います。
映画のフレームは素材を(ここではアレンズワースという土地の風景を)その内側と外側に切り分けます。切り取られることで2つのものが感じられます。1つは切り取ったフレームの中に見える風景。もう1つは外側に広がる不可視の「それ以外」の世界です。
5分間という時間もまた1つのフレームです。そこに見えるのはアレンズワースという土地の現在です。ここにはかつてアフリカ系アメリカ人の共同体が存在しましたが、現在は住む人がおらず、修復された建物が残っています。往時の痕跡を留めた住居や土地の空気が、今・ここではない時間を想像させます。
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