期待はじぶんのモノ。
家族ってなんでも話せるもの。家族ってなんでも理解し合うもの。家族だから分かってくれるもの。
手をつないで、お互い好きで、愛し合って、良いも悪いも分かって、結婚したはず。
結婚して、家族になったなら、「○○だろう。」という期待が、夫側・妻側それぞれにあるのだろうと思う。
私はどうしても、妻側の話を聞くことが多くなってしまうが、夫なら大変な時はねぎらって、そこにいるなら手伝って、話を聞いてくれて、共感してくれて、私が頼む前に察して動いて欲しい。そんな風に思っている。
妻はこう思う。妻は、夫という人に期待を込める。だって家族だし、結婚した相手なのだから、○○でしょ。と。夫は私の結婚した相手なのだから、自分が大切にすること、自分が訴えることは理解してくれるだろうと。好きで、愛して、信頼して、理解し合って結婚した相手だもの。
夫になった人に対して、こういう妻の結婚や家族に対する前提や背景、価値観みたいなものがあるんじゃないだろうか。結婚した相手なら、家族になった相手なら、ここまでは分かっているだろう、という結婚や家族という言葉に基準を設けているんじゃないだろうか。その基準に夫の行動が満たない時、期待には応えてくれない時、妻は、夫なのに、家族なのに、○○してくれない、、、これはイコール、結婚や家族という言葉に設けていた「妻の基準」が崩れる時なんじゃないだろうか??これはきっと、、妻が持っていた、これまで「理想」と描いてきた結婚観や家族観が崩れる瞬間でもあるんじゃないだろうか??
結婚観や家族観が崩れるということは、イコール、結婚した家族になった相手、夫に対しての「気持ち」が一気に崩れ始める瞬間でもあるということ。夫は私の結婚した相手なのだから、自分が大切にすること、自分が訴えることは理解してくれるはずなのに、、、好きで、愛して、信頼して、理解し合って結婚した相手だったのに、、、結婚して家族になった人なのに、、、どうして??こんなはずじゃなかったよね??、、、と。。。
パートナーシップにおいて、いろんな話があるけれど、私はこう思っている。
夫が妻のかけた期待に応える人じゃなかったことが表面上の原因の様に見えるけれど、、、本当は、自分が持っていた結婚観や家族観が崩れることが、妻には耐えがたいことなのだろうと思っている。それまで理想としてきた価値観、もっと言えばこれが「正しい」と信じてきた価値観。「正しい」と信じてきた価値観が崩れる事がまるで、私が「間違っている」という風に受け取ってしまう人の脳が一番の原因だと考えている。パートナーシップも極端に言ってしまえば、認識の問題だと考えている。
じぶんが間違っていたなどと、誰も思いたくないし、受け入れられないものだ。だから、自分が持っている価値観をちょっと待てよ…と自分で疑いをかけられるには時間を要したり、それなりの技術ある人に探ってもらったり、徳のある方に気付かせてもらわないと、届かない領域である。
だから、多くの人は、自分が持つ価値観に疑いをかける前に、相手へ期待することを止める。なかば、諦めるという行為だ。男はバカだからとか、男は鈍感だからとか、という理由を付けて、期待をしないことを選ぶ。本当は好きで、愛して、信頼して、理解し合いたい相手なのに。。。
だから、諦めるというフェーズに移っても、自分はスルー出来ることは増えるが、夫との関係が改善するわけではないじゃないだろうか。
本当は好きで、愛して、信頼して、理解し合いたい相手なら、その自分の本音の本音に耳を傾けられないものだろうか??この自分の本音に耳を傾けられないから、妻たちは悲しいんじゃないだろうか…??
期待は自分の価値観から来るものであって、自分のモノであること。期待は相手のためにあるモノじゃない。
夫の妻への期待も、夫の価値観から来るもの。夫と妻の価値観はイコールだろうか??
夫の価値観もどこかにあるはずなのである。好きで、愛して、信頼して、理解し合いたい相手である夫の価値観が。妻たちは好きで、愛して、信頼して、理解し合いたい相手の価値観を大切に出来ているだろうか???
期待は油断する脳の反応のようなものだから、期待を扱わずに、そもそも正しいと抱いていたり、どうやら夫といると崩れてしまう自分の価値観を扱ってみると、見える景色に角度が付いて、違う夫の姿が現れたりするんじゃないだろうか。
崩れてしまう価値観を持つことを止めれば、崩れることもなくなる。
手放すフェーズに移るわけですが、、ここがまた手ごわい。