「ごきげんに生きる」とはHAPPYを並べる事じゃない。
いつも、気持ちの裏に。
喜怒哀楽の裏には、本音がある。
ネガティブな怒りや悲しみは、一度味わったら、自分の外に取り出し、俯瞰してその裏にある気持ちを整理する。ネガティブな怒りや悲しみは感情の主にならぬよう、自分の外に取り出し、温めてあげることにしてる。
怒りや悲しみの主になってしまうと、イライラと怒りは続き、シクシクと悲しみは続く。怒りという感情は、ホルモンとかの話からすれば6秒か9秒で終わるもの。だとしたら、、その後も気持ちを引きづっているのは、他でもないじぶんの「心」。このことを知ったとき、、、正直、ブルっと来た。
そして、この2か月ほど思う。ポジティブな気持ちも同じなんじゃないだろうかと。
喜び・楽しさ。私はこの気持ちは、ネガティブな感情とは違って喜び・楽しさの主人公になって味わっていればいいと思っていた。もちろん、喜びや楽しさの瞬間はそれでいい。ジャンプして、声を出して、体を動かして、その場に誰かが居れば、ハイタッチして誰かと共有すべきものと思う。思い切り表現すべきだ。(迷惑にならぬようにだけ…)そうでないと、喜び・楽しみの感情も消化されない。
でもね、、、このポジティブな感情にでさえ、味わった後は私は冷静さが必要なんじゃないかと思う。あの喜び・楽しさは一体自分の何を震わせた体験だったのか??喜び・楽しさの裏にある、自分の本音はいったい何なのか??
喜び・楽しさが波を引いた時、私たちはまたあんな気持ちを味わいたいと思うんじゃないだろうか??
そう思うことは、悪いことじゃないし、自然なことでもあるのだけど、、、よく考えておきたい。
結婚していたら、「結婚したい」とは思わない。
お風呂に入っているときに、「あーお風呂に入りたい」とは思わない。
今・ここに「無い」ものを、また味わいたいと思うんじゃないだろうか??だから、また欲しくなるんじゃないだろうか??
それは、同時に、今・ここに喜びや楽しさが「無い」ことを表していないだろうか?
感情は移ろいやすいものだ。
飛び上がるような、喜び・楽しみがないとHAPPYになれないとしたら、、、日常が鼻くそくらいになっちゃうと思うのだ。言ってしまえば、喜び・楽しみがなければ、UnHAPPY になる。
そうじゃなく、これは先日書いたけど、HAPPY か VERY HAPPY かのどちらかで、皆が生きているって分かれたら、世界は今よりずっとHAPPYだと思う。
だから、思うのは、ごきげんに生きるということは、非常にニュートラルに生きる事だと思う。感情は豊かでいい。それが人生に彩りを与えてくれるから。
感情に対する言葉が思いつかないが、、、ここで言えば「心」だろうか。「心」はいつも、どんな悲しみも喜びもでもキャッチできるよう、ニュートラルにあると、ごきげんなんじゃないかと思う。移ろいやすい感情が安心して着地できる「心」。
ごきげんに生きる、とは。いつもニコニコしている事でもない。そんなの気持ち悪い。うわべに出てくる感情の裏の本音にこそ、自分でたどり着いて、耳傾けられる「心」を養いたい。
「ごきげんに生きる」がカチッと言語化出来てないが、輪郭が見えてきた。
思いついたから、付け足し。感情が「動」なら、心は「静」でありたい。