ありのままで社会性を包むことは出来ないだろうか??
ありのままと、社会性はいつも対峙してしまうのだろうか??
子どもが行くところ行くところ止めないでいたら、歩道から出て車にぶつかってしまうかもしれない、言いたい事全て言っていたら誰かを傷付けてしまうかもしれない、そのままでいたら変な奴と思われるかもしれない、仲間外れにされるかもしれない、いじめられるかもしれない、、、ありのままでいたら、稼げないかもしれない。
ありのままでいたいと思うことと、社会性を失ってしまう事はいつも対峙する気がする。
社会性を重んじてしまうばかりに、湧き出てくる自分の想いとか、感情とか、気持ちとか、怖さ、喜び、嬉しさ、でさえ、抑えてしまうことはなかっただろうか。
頭で考えれば、そもそもいつも対峙してしまうこの二つの要素だけれど、、、ありのままさが社会性をも包括するような、そんな姿は可能ではないのだろうか??
ありのままである「己」の姿で生きる人。でもそういう人を見ると、やっぱり変わっているとは思う。一方で突き抜けていて、すごく眩しい。私は突き抜け切れていないから、突き抜けている人が私の目の前に現れる頃には、その人は程度はあるだろうが、相当なしんどい思いを越えてきたのだろうと思っている。
叩かれた経験、理解されない経験、非難される経験、、、
そう思っていると、このしんどい思いに耐えられるのか?私は。という恐れがいつも襲ってきて、現状維持をしてしまうのである。
突き抜けるのと、しんどいのは、いつも隣り合わせなのは、真実だろうか???
いつも、問いを立てて終わってしまうね。。。
今日はここまでにて。
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なかなか変われない…それって自分自身のせいじゃなくて、捉え方を変えたら今から変われるもの。そんな言葉を文章で伝えたい。最後はやっぱり自分と向き合い切るかにたどり着くから、その強さを持つ人になりたい。