「違い」を「違う」ままに出来ず、劣等感や優越感を抱いている
私は元来落ち込みやすい。
そうならないためにどう世界を捉えたらいいかを学んだり、なぜこうなったか過去に理由を探しに行ったり、やりたい事をやってみたりした。
そして、最近すごくシンプルに出た答えは、、、
じぶんではない、他の何かや誰かの価値観を基準にして生きてきたから。
「己の姿で生きよう!」「私らしく生きよう!」と決めて、そう生きている人でも、まだ「生きづらさ」を抱えているらしい。。
たぶん、、、それは、「比較すること」から始まっている。
比較して、「違うだけ」の認識に留まればいいが、、、それを、「私より進んでる」「私より速い」「私より多い」と、進むことが、速いことが、多いことが、無意識に「優れている」と「判断」していないだろうか。ただのスピードや、進捗度合いの「違い」なだけなのに。
「違い」を「違い」のままに出来ず、優劣・善悪・正誤へカテゴリーしてしまう。そうすると、なんとも、自分の焦燥感や罪悪感に説明が付き、落ち着くのだ。
今じゃ、肌の色の違いで驚くことはなかったが、じぶんと肌の色の違う人間がいることを知らなかった人にとって、脅威であったろうと思う。そして文明の「違い」だけなはずなのに、文明に「優劣」をつけ、じぶんたちが優れているという立場を作り上げる。そして、差別し、侮辱し、排除し、対立したりする。
宗教も同じだろう。「違う」だけなのに、そこに優劣を付けたがる。正誤を付けたがる。そして対立する。
今では肌の色が違う人がすれ違ってもそんなことは考えにくくなった。(実際には残っているのだろうけど。。。)
時代は移り、恐らく今は、価値観の「違い」を「違い」のままに出来ない、「違い」に反応して、どうしても「判断」しようとしてしまう人の脳が、多様性を認めあうことから遠ざけている気がする。もちろん、多様性を認めるということにおいて、進んでいる分野もあるけれど、、、
相変わらず抽象的で、多くの人に理解してもらえないのだろうと、、思ってしまうことしか書けないのだけど、、、
「違い」を「違い」のまま、他との「違い」に反応せず、「判断」しないで、じぶんの価値基準で、心動く生き方をすることを、じぶん自身ふくめて歩む人たちと、人生を歩みたい。