分かろうとして、感じられなくなった。
分かろうとしていた。
なんて傲慢かとも思う。
『塩田千春展:魂が震える』へ行ってきた。
タイトルもそうだが、この個展の存在を知ったのはトップ写真の衝撃的な作品。
心がギュッと掴まれる感じ。赤。赤。赤。不気味さと見えない何かを表現してる、心がザワザワと、頭をユサユサと、なんともざらつく、落ち着かない、浮ついた感覚に襲われた。
何を表しているのか??そんなことを思いながら進むと「血と人との繋がり」を表してることを理解する。ここで、ホッとする自分がいた。「血だけじゃなくてよかった…」と。
不気味なもの、異質なもの、自分とは異なるものは理解しがたい。
全ての作品の意図は何だろうか?と知りたくなるのでそれぞれの作品のキャプションみたいなのを読めば「なるほど~~」とも思った。でもの全ての作品においてじゃない。むしろ、理解できないものには、私は「無関心」と言ってもいい反応をしていたことを、今思い出す。その瞬間はそのことにさえ気付かない。
そして、半分くらいで気付いた。私はこの塩田千春という人を、この作品を通して理解しようとしていると。彼女が追求してきたアートの世界観を私の(アートにおいては)小さな理解へと小さく収めてしまいそうなところだった。彼女を分かろうとしている。
この時、同時に起こっていることは「感じていない」ことへの気付きだった。
不気味だ、までは感じていた。でもその後は、不気味さをアートにするのだから凄いとか、やー理解しがたい、でも魂は揺さぶられるなぁとか、、、これも感じてたか。。。
何が言いたいかというと、、少なくとも、頭で理解しようとした途端、感じることが出来なくなるというか、同時には出来ないという気付きだ。
理解することが得意な人、感じることが得意な人、それは人それぞれでイイ。そのバランスも人それぞれであるはず。それが尊い。
人であるなら、理解したい、そして理解ある人と思われたい。
傲慢なのかもしれない。