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文学との馴れ初め

 私が初めて、文学に触れたのは高校を卒業する直前だった。高校から、次の学舎へ飛び立とうとしたその時、自分がどれだけ無知蒙昧であったか一つのYouTubeの動画から知った。今では非公開になってしまった、その動画には私の知らない世界が詰まっていて、観るだけで世界が少しづつ広がっていくことを感じたのだ。本を読もう。そう思った時、何の因果かエミリー・ブロンテの「嵐が丘」を手に取った。彼女は生涯長編小説をこの一作のみ書いて三十歳と若くして結核で亡くなっている。

 読む前の私はそんなことも知らずに、どこかで聞き覚えのある作品だなぁ、と呑気に考えながら毎日50ページずつ読み進めていた。最初は苦痛でしかなかった、作業が少しずつ安らぎの時間となっていくことを日々感じていく。やたらとキリスト教の話がわかりづらかったり、7の77倍と言われて頭を傾げていたが、わからないところを見つけては調べる。
この作業が、この勉強が、僕という人間をもう一度作っている様に感じた。

 そうして二週間が経つと私は「嵐が丘」を読破していた。最後のシーンの迫力に私は生まれて感じたことのない、震えを覚えた。初めて触れる文学と言う世界に私は魅せられてしまった。筆者の文章力、構成力、無駄なものが省かれた美しい文章に。翻訳者の血の滲むような努力も垣間見える、それが素晴らしく愛おしい。私はその時飢えを感じた。それは食欲的なものではない、人間の根源的な欲物語を求め新たな世界を望む、名前の付け難い欲望。

 それを求めて、私は作者の違う作品を探し出そうとした。しかし、上述の通り彼女はその他の長編小説を世に残すことができずに亡くなっている。そのことを知った時、私はこんなにも才能に恵まれた人間が才能を惜しみなく使うこともできずに、早々と世界を去ったことがとても残念に感じた。と、同時に私如き凡人が人生を無為に使っていることが、何だか阿呆らしく感じた。読んでいない本も世界には沢山有る、行ったことのない場所も沢山有る。
 私は自分が演劇に携わる人間として、芸術に対して真摯では無いと感じた。それからというもの、年間百冊程度で有るが、本を読み、触れてこなかった音楽や絵画も勉強している。私は自分がいつか日本の芸術に、日本の演劇シーンに貢献できることを切に願って、この駄文を納める。

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