虐待された人が楽しい人生を生きるためにすべきこと③ 〜負のフィルターを取り外す〜
発達性トラウマを持つ人は、「新しい人間関係」において、相手に対して偏見を持ってみたり、見下そうとしたり、自分を誇示しがちです。
特に、繊細な一面を持ち合わせている人は、自分自身のこの偏見に気づかず、過去の事例を参考にフレームにはめておいて、「私にはわかる」「私には見える」と、わかったふうな分類しようとするのです。
でも、ちょっと待って。
「本当に見えている」「こう感じる」というあなたの感覚、バイアスがかかっていませんか?
本当に見えているの?
本当に感じているの?
気づかないほど習慣化している「悪く捉える癖」
私の体験でも、本当に「好意を感じて伝えている」にも関わらず、相手に「いやいや、私のことなにも知らないくせに好感持ってるとか嘘つくのはやめて」と言われて、驚いたりがっかりしたりしたことが何度もあります。
この「好意」は、決して嘘じゃないから。
生育環境において負の感情を家族にぶつけてこられた結果、「純粋な愛情」すらも「汚れている」と思い込んでしまう。冷静に考えると本当に悲しいことです。
しかも、「なにも知らないくせに好きとか言わないで」って……。
「知らないけれど好き」じゃ、ダメなんでしょうか?
知り合ったばかりで「第一印象が好き」で、ダメなんでしょうか?
知り尽くして、熟成された気持ちじゃなきゃ、ダメなんでしょうか?
「知ったら知ったで、あなたはきっと、私を好きじゃなくなる」。
それはそうかもしれません。そういうこともあるでしょう。でも、人の気持ちなんて、変わりゆくもの。
「いま、好きと感じている」この気持ちまで疑われたら、友情も始まりません。それなのに、小さな「好感」という芽さえ、拒否してしまう。
これが、毒親育ちの人の悪い癖ではないかと思うのです。
もうこれ以上、期待してがっかりしたくない。
もうこれ以上、傷つけられたくない。
二度と被害に遭わないために、相手のことを、さもなにかを知っているかのように、マイナスのフレームをつけて見ていることが、発達性トラウマを持つ人にはよくあるはずです。
発達性トラウマの人の特徴として、日常生活において、「恐怖」「不安」に遭い過ぎて、「戦場にいる兵士」のように常に「危険察知」のアンテナを立ててしまう習慣が身に付いてしまっています。
後から冷静になると気づける日もやってくると思いますが、「危険察知」状態がデフォルトとなっている人にはわからないのです。
もうこれ以上、「傷つけられたくない」という思いが強すぎて、防御反応として、相手を「悪者1」「悪者2」のように分類しようとし始めます。
ーー過去に似た人がいた。
ーーこのセリフは自分の親のようだ。
相手の言葉の小さなカケラだけで相手を決めつけてしまっては、相手を分類し、見下せるように相手の欠点を探します。
いつも粗探しをしているような状態です。
粗探しをし続けて、「粗探しモード」になっているので、相手の優しさや、思いやりよりも、「自分を傷つけそうななにか」を一生懸命、探している状態なのです。
そんなバイアスのかかったフィルターで相手を見ている状態の発達トラウマを抱えた人が、落ち込んだり傷ついたりしている時、こちらから慰めようと近づいたら、逆に、思い切り傷つけられることも多々あります。
全然こちらの思いが伝わらないまま、なにも始まらないまま、友情が終わってしまったケースも。
実際、筆者自身にもそういうところがあったと思います。
SNSの投稿で、お悩みを相談したかったわけじゃなく、ただ「目の前で起こったことを書いているだけ」なのに、ムダに慰められたら、慰められたで腹が立つのです。
なにも知らないくせに、偉そうに!
そう思っていました。実際、慰めてくる人の中には、マウントを取りたいがために上に立つために「慰めてあげる人」になろうとする人もいるので、いつも警戒していたように思います。
でも、ついでに「優しい人」をも跳ね除けてしまってきたと思います。
私としては、「似た経験をしている人」の力になりたくて、過去の辛いできごとを書いているのに、虐待サバイバーではない温和に育った人から、わかったふうなコメントをもらったり、「親のことそんなふうに書くもんじゃない」などと遠回しに言われたら、やっぱりムカつくものですよね。
さて、ここで問題なのが、同じ「毒親同士」のパターンです。
「私のほうが大変だった」という不幸の比較
似た境遇だなと感じた人には、私は、「毒親」という課題を抱えた「同志」と感じて、ついつい近寄ってしまいます。
しかし、ここで必ず「私のほうが大変だった」という話になって、関係性がギクシャクします。
不幸は比較できません。
被害は比較できません。
総合的に見ると「辛い体験を背負ったもの同志」という点において共通であれば、互いにねぎらい合い、互いの人生を讃えあう。それでいいと私は思うのです。ところが、必ずほとんどの毒親育ちの人が
「私の親のほうがもっとひどかった」
と、ひどさを競い合うのです。それは必要でしょうか? 私は必要ないと思います。人生の大変さというのは、比較のしようがないからです。
・暴力の重度、頻度、年数
・陰湿さ
・言葉によるモラハラ
・経済的なモラハラ
・兄弟がいるかどうか
これらは比較しようがないのです。
例えば「一人っ子だから、だれとも親の大変さを分かち合えなかった」と思っている人がいるとします。でも、その人は「兄弟を比較される辛さ」を知りません。毎日毎日、兄や姉ばかり褒める、弟や妹ばかり褒める、そういう親もいます。兄弟がいたとして、親が虐待をするからと、兄弟もいっしょになって危害を加えるパターンもあります。
例えば「言葉の暴力」「体罰」どちらもひどくて手に負えない母親と絶縁していた女性。私の親のように、世間的には素晴らしい人だと言われ、努力家で、学問の機会を与え、健康的な料理を作ってくれるなど良妻賢母タイプだった母のことを、そういう女性から「うちよりマシだ」と言われたことが何度もあります。
わかりやすい毒親と、わかりにくい毒親がいます。
私の母は確かに母として立派な一面もありましたが、自分が良妻賢母として優秀であると、周囲から評価されるために、自分が私にしてきたことをひた隠しにして、都合が悪いことが露呈しそうになると、私の愚痴を親族や自分の友人に言いふらすような、陰湿な人でした。
つまり、根回しするわけです。
しかも、「うちの娘はちょっとおかしい」「記憶違いをしている」と、私の言葉が人に届かないように根回しします。
おかげで、悪いのは私ということになります。実際に世間的に立派な母の話を、周囲は鵜呑みにします。だれにもこちらの被害は信じてもらえない。「お母さんは立派よ。あなたには、ちょっと厳しいだけでしょ」ということになる。
母が、どれほどドス黒いエネルギーを向け、どれほど憎しみに歪んだ顔で、私を叩いていたか。私に向けられていた母のダークサイドの顔や言葉については、だれも知らないのです。
ドラマでも「ラスボス」は、一見、優しそうな人だったりします。でも、やはり世間は「いかにも悪そうな人」を悪く思うものなんです。
この私の母のような立ち回りをする人の怖さには気づきにくい。おかげで、私には味方がいない。でも、「うちの母のほうがひどい」と言ったその女性は、「あのお母さんじゃ大変でしょう?」と周囲に同情してもらえると言います。そのほうが周囲から協力してもらいやすかったりもするのです。
言葉と身体への暴力がひどい無責任な母親
思考をコントロールし感情を排除し娘を狂人扱いする良妻賢母な母親。
どちらのほうがマシなのでしょうか。
しかも、優しい時と、そうではない時と、「二重人格」のように激しく変わる、言っていることとやっていることが違う、ダブルバインドな母親の苦しみというものもあります。これも経験しないとおそらく理解できないでしょう。
人生の辛さは「体罰のひどさ」だけじゃなく経済や環境も関係している
それに、モラハラがひどくても、私立の四年制大学を出させてもらっていたり、成人になったからと追い出されずに家に同居させてもらえていて、料理も出てくるのなら、ある意味、やはりそれは恵まれています。
服を買ってもらえない。大学に行かせてもらえない。そういう環境の人たちもたくさんいます。
なにより、「その人の魂年齢」に合う、大変な親子関係を体験している……と、個人的には思います。見合うだけの大変なことが、その人の人生で起こっているはずです。
人生は一長一短。
不幸や被害の比較は不可能。
そう思って、お互いの「乗り越えてきた日々」を讃えあう。そんな仲間になれたらうれしいと私は思います。
そのためにも、「マイナスのフィルター」=「きっと、この人も悪い人だ」と決めつけて疑う習慣を辞める練習を。
そして、「過度に期待」するのではなく、「過度に理解を求める」のでもない、ゆっくりゆっくりとした「人間関係を形成する」ことを、試みてみませんか?
完璧な相手、完璧な関係などない。
私は、そう思います。