親から毒された人が本当に「暗闇」を攻略する方法
毒親に育てられた。
愛着障害。
アダルトチルドレン。
言い方はなんでもいいのですが、要するに、
「自分は親から好かれていないのだな」
と感じるような言動や態度を、親から取られてきた方について。
ついつい人を疑ってしまう
どうせ自分は愛されないと思ってしまう
この人も攻撃してくるのではないかと用心してしまう
人の粗探しをしてしまう
といったものがあると思うのですが、もう一つ、
5.人の悪意ない言動さえもネガティブな言動だと思い込む
という習慣が自分にあることを自覚するのが、どうも難しいように感じます。自ら「悪人フィルター」をかけてしまっている人が多いように思います。
というのも、私の心に「怒り」や「憎しみ」などの心の動きなどない状態で接しているときに、「そうだ」と決めつけられたことが何度かあったこと、そして、自分自身の心が不安定なとき、愛するパートナーの言葉に「悪意がある」と感じる習慣がまだ残っていたから。
おそらく毒親育ちさんたちは、
周囲の人間のことも
「悪い人間だ」と思いたいし「未熟だ」と思いたい。
だから、
「あなたは気づいていないかもしれないけれど、あなたは怒っている」
とか
「あなたは自覚したくないだろうけど、あなたは攻撃的だ」
とか
「あなたは自分でわかっていないけれど、すぐに不安定になる」
などと、相手を批判、指摘、攻撃する傾向にあるようだ。
おそらく、同じ穴のムジナだと思いたいのではなかろうか。
嫉妬する人と同じで、自分が変わるよりも(批判して)周囲を下げる行為だと思う。自分がまだ未処理の感情を抱えていてそれをクリアにできないから、相手もまだクリアではないと思いたいのだろう(汗)。
未処理の感情を消化するために
「傷ついた幼いころの自分」が感じていた感情を消化できずにいる人は、意外に「努力家」である。あんな親のようにはならないぞ!と強い信念を持つことが強いモチベーションになるからだ。
そうした自分を律することが得意な人にとっては、「立派な人間になる」ための努力というのは、割と手のつけやすい「努力」なんだと思う。
でも、「人を許す」ための努力というのは、こうした努力家こそ、おそらく苦手な分野の「努力」になるのだろう。なぜなら、自分がまず「魂の成長」の分野については、未熟であることに気づかなければいけないから。
努力してきたからこそ、自分の未熟さに蓋をしてしまう。
未処理の感情を消化するためには、「人を批判してばかりの自分をやめたい」と心から感じて、「本当に愛のある人生に切り替えるぞ」と自分で決断する必要がある。決断しないと人はなかなか変われないものだ。
そして、そう切り替えるには、まず、
・自分をとことん愛してあげる
ということが必要だ。そして、そのためには
・自分の望みをところん聞いてあげる
ということがまず大切になってくる。
インナーチャイルドワークとか
セラピーとか
セッションとか
ブロックはずしとか
いろいろあるけれど、それだけでは、虐待を受けて育った人間にはクリアにしていくことは難しい。瞬時にまた元の「暗闇の世界」に戻ってしまう。
自分の望みはなんだろうかと、とことんしっかり自分に聞いてあげて、それをどんどん叶えていくことが必須なのだ。
そして、その後、さらに
・ネガティブな言動を止める
ということが必要になってくる。
ネガティブな言動は、どうしても、また元の「暗闇の世界」に戻るルートにつながっている。
人を疑う、批判する、否定する。
自分を疑う、批判する、否定する。
こうしたネガティブなエネルギーを、自分や周囲に放つ限り、「暗闇の次元」を何度もループすることになる。
「傷ついた過去の自分」と本気で向き合わないことは、ネガティブを溜め込んだままの状態を隠している分、無意識に人を見下したり攻撃したりすることになる(私の母がそうだった)。自覚がないから厄介だ。
いつまでも「自分の辛かった過去」を語ることも、これらと同じ行為であると、自分の経験から考えられる。
私自身、同じように辛い思いをしている人たちに、自分の経験を語ることで、「あなただけじゃないよ」と伝えたいという意図だったのだが、どうやら、そのために「未処理の感情」をクリアにすることも時間がかかってしまった。
私たちは「自分で自分のネガティブエネルギーに別れを告げる」必要があるのだ。
ネガティブエネルギーを親から受けて育つと、ネガティブがなじみ過ぎて、自分には明るい光がもう届かないような気持ちになってしまう。
だけど、本来なら、生まれる前に、だれもが本当は「光」の国から「光」を抱えてこの世に生まれてくる。ここからは見えない世界の話になってしまうのだけれど、本来、だれもが光の子であり、だれもが「光」を知っている。喜びを知っている。それを思い出せるかどうか、にかかっている。
自分の中にある「小さな光」を見つけ、そことつながる練習を毎日していく必要がある。そのために、「呼吸法」や「マインドフルネス瞑想」などをしていくことが重要になってくる。
自分がそもそも「光」であることを思い出せることが重要なのだ。
私たちはみんな「被害者」でも「加害者」でもある
そして、さらに、最近つくづくわかってきたのが、
「だれもが被害者であり、同時に加害者である」
ということ。
「だれも傷つけたくない」
というセリフを、人からも何度も聞いてきたし、自分も思ってきた。しかし、それはきれいごとだ。
私たちは、生きていく以上、必ずエネルギーをぶつけ合う必要がある。意図的にしろ、無意識にしろ、傷つけ、傷つく。
でも、それが「生きる」ということ。
私たちは、長い人生の物語のなかで
「だれかの加害者」になるストーリーと
「だれかの被害者」になるストーリーと
どちらも描いて生まれてくるのだろうと思う。
加害者と被害者。
どちらの役割も担うことが、
宇宙の法則的には必須なんだろうと思う。
迷惑をかけずに生きる、なんて無理。
それは「関わらない」ということに等しい。
生きるということは、
お互いにエネルギーを侵害し合って生きているし、
お互いに奪い合って初めて譲り合うことができるとも言える。
そこにある空気を吸わないと生きていけないし、吐かないと生きていけない。そこにある植物や動物を搾取しないと生きていけないし、食べた分だけ排泄しないと生きていけない。
つまり、完全にだれにも迷惑をかけないなんて、所詮、無理なのだ。なにかを得て、なにかを吐き出して、人は生きている。
ネガティなエネルギーも、お互いに引き受け合うことも大切。抱えきれないほどネガティブなエネルギーを受けてきたのだから、どこかに吐き出す必要がある。
だけど、だからこそ、いつまでもいつまでも「ネガティブな感情」を、身近な人に伝え続けたり、発信し続けたりしない方がいいのだろうと思う。
人に伝える以外にも、ネガティブなエネルギーを処理する方法はある。人に伝えようとする限り、それはいつかまた自分に戻ってくる。
発信し続けた分だけ、自分にまた返ってくる。私も取り返しがつかないのではないかというほど発信してしまった。
「闇」を発した分だけ、闇が返ってくるし
「光」を発した分だけ、光が返ってくる。
だったら、どんどん光を発信できるように、自分で自分を変えていくしかないのではないだろうか。
最初は難しいと思う。「隣のトトロ」に出てくるポンプを思い出して欲しい。「呼び水」を川に汲みにいくシーンがあるけれど、あの呼び水は、親以外の人からもらった「優しさ」だ。呼び水さえあれば、どんなに枯渇した家庭で育ってきた人も、必ず「愛情」という名の泉が湧いてくるはず。
大丈夫。私たちは、そもそも「愛」という名の泉を持って、この世に生まれてきている。
そして、暗闇を知る人ほど、より光輝けるものだ。