「自己肯定感」という言葉の定義って曖昧
「自己肯定感」という言葉は認知されてきたが
言葉の定義について、考えてみたことはあるだろうか。
自分を肯定する。
とは、どういうことなんだろう。
個人的な見解だけれど
「自己肯定感」には、大きく2種類あると私は思う。
①内的・基本的 自己肯定感
②外的・社会的 自己肯定感
この2種類だ。
同じ「自己肯定感」という言葉を使っていても
それぞれの認識が全く異なることが多いために
話がわかりにくくなっている気がする。
ということで、私なりの分析を少しお話しする。
①内的・基本的 自己肯定感
内的・基本的 自己肯定感というのは、
自己受容感
自己信頼
のこと。
自分の良いところも
自分の嫌なところも含めて
なかなか悪くないじゃん、私。
と感じることが、自己受容感。
失敗する自分
醜い心を持つ自分
かっこ悪いて足掻いている自分
それも、全部、受容する。
そして、「自分」が
この世に「存在していること」への信頼。
この世にいてもいいんだよ。
この世に意味があってやってきたんだよ。
……と感じることが、自己信頼。
「自分」という存在が、
この世で生きること、在ること
自分の「生」に対する信頼感。
本来、これがあると
どんなことがあっても
おそらく乗り越えていけると思う。
これは、生まれ持った力でもあるのかもしれない。
コツコツ努力して身につける
というよりも、
本来は、それぞれの心の奥底に隠れていて
「ある日、突然気づく」ということなら
あり得るのかもしれない。
②外的・社会的 自己肯定感
外的・社会的 自己肯定感というのは、
自己効力感
自己有用感
のこと。
自己効力感とは、「自分にはできる!」と思うこと。
自己有用感とは、「自分は役に立っている」と思うこと。
私たちが広く一般的に
「高めよう」としているのは
こちらの自己肯定感ではないかと思うのです。
実際、小さな成功体験の積み重ねなどで
徐々に伸ばしていける部分だと思う。
内的・基本的 自己肯定感が低いからこそ
ここを、高めるしかないというか
高めようとがんばる人が多い。
私も、これはコツコツと
高めてきたので、おそらく一見
自信ありそうに見える。らしい。
でも、これらは「他人からの評価」としての
自己肯定感であり
人から見てわかりやすい部分。
ここばかり高くなってしまい
内的・基本的 自己肯定感が低いままだと
周囲を批判したり
人を見下したりして
なんとか立っているような
そんな人になりかねないのではないかと思うのだ。
実際、亡き母はそういうところがあった。
自分の意見を人に押し通し、押しつけておきながら
「私は、自信がないから」と言う。
自信がないならなぜ自分の意見を正しいと思うのか
よくわからないなと、私は思っていた。
「宇宙」とか「神様」とか称する
「大いなる存在」を信じているかどうか
前出の
内的・基本的 自己肯定感というものは
おそらく、「神様」「運命」とか呼ばれるような
人間の力の及ばない「大きなもの」のことを
信じているかどうかと大きくつながっている。
といった宇宙の法則のようなもの。
そして、それについての信頼、信仰心、
「この世」と「この世での自分という存在」について
信じているかどうか。
なるようになる。
そうわかっていると、
なんとかしなきゃと焦ることは減る。
自分ひとりの力では
どうにもならない部分について
信頼して委ねることができる。
この信頼感、肯定感が低いと
いくら、自己効力感、自己有用感が
育ってたきたとしても
人は「一人でなんとかしなきゃ」と
悪あがきして、人を踏み台にしてしまう。
それぞれの自己肯定感 〜私の場合〜
私は、
この「宇宙」に対しての信頼感が
生まれつき高いのだろうと思う。
というか、
物心ついたとき
「知っていた」「感じていた」
という方が正しいかもしれない。
10代のころは「宇宙」との絆が
一旦、切れてしまっていたので
どこまでも自己不信感の塊だった。
死にたい衝動もたくさんあった。
いわゆる「生きづらさ」を抱える
10代だった。
だけど、幼少期には、イマジナリーフレンドもいたし
10歳ぐらいまでは
家族に愛されているのかどうかはわからなくても
(姉は少なくともかわいがってくれていた)
学校で友達に裏切られても、嫌われても
心のどこかで「見たことのないどこかにいる友」が
いてくれるような気がしていた。
目に見えないいろいろな存在の気配。
人が見ていなくても、見えないだれかが見ている。
だから、だれもいない場所でも
自分の心が正しいと思うことをしよう。
と、小さいころから感じていた。
だれもいないところで、ズルをしようとして
見えない人から罰を下された体験もある。
ただ、この宇宙への信頼感があろうと
私は、幼少期に毎日のように
親から「ダメ出し」をされて生きてきたので
やはり「自分に自信はない」のである。
本当に動けなくて
本当に孤独だった。
33歳で離婚したころから
この「宇宙との一体感」のようなものが
再び、繋がり始めた。
そこから私は、
内的・基本的 自己肯定感を取り戻した。
それからは、どうやら
私は「自己肯定感が高い人」に
見えるらしい。
だが、「あなたはもともと自己肯定感が高い」
と決めつけられることは、非常に心外である。
なぜなら、絶望と孤独を
一人で乗り越えてきた過去を
すべて否定されたように感じるから。
すべてをクリアしてきたから
「宇宙」〜「自分」〜「地球」
という繋がりが戻ってきた
いまの自分は、自己肯定している。
確かに、肯定している。
だけど、ずっと自己肯定感が低かった。
これも、紛れもない事実であり
どっぷりと絶望の淵にいたことまで
否定されたくないし
なかったように
気楽に自己肯定感で乗り越えてきたように
安直に言われることが大嫌い。
本当に深い深いどん底から
這い上がってきたから
今があるのであって、
どん底がなかったかのように
言われることについて
私は、聞き流せない気持ちになるのだろうと思う。
いま。
私は、この世も、私自身も
すべてを肯定している。
そして、ともにこの世に生きている事を
喜び、そして、分かち合いたい。
とはいえ、嫌なことを、嫌だということも
ある意味、自分を大切にすることだと思うので
最近では、嫌な気持ちがした時には
なるべくリアルタイムに
「不快だ」
「そんなこと言われる筋合いはない」
と、相手に直接伝えられる自分でいたいとも思う。
そこから脱却・卒業して
「また、なんかゆーてはるわ」
と、流せるようになるべきなのかもしれないが
いまのところ、私は
そうは思えないのである。
そんな自分さえも
「肯定」していきたいのだ。