存在の矛盾を抱きしめて
私は自分のことを虐待児だと思ったことはない。
いや、たまにそう思ってしまいそうになることはあったけれど、いつもその直前で足を止めてしまう。私の家は、世間から見れば普通だったはずだし、少しだけ毒親だったのだと思う。ただ、特におばあちゃんは酷かった。私が小さい頃、彼女の厳しい声が一番響いていた。優しい日もあったはずなのに、どうしてあの日々のことばかり思い出すのだろう。
本当は、誰かに家族のことを非難してほしかった。誰かが「ひどいね、そんなの間違ってるよ」って言ってくれたなら、きっと私は救われていたんだろう。そう言われることが、私の感情を正当化してくれるような気がしていた。自分が間違ってない、私が感じている痛みは嘘じゃないって証明してほしかったんだ。でも実際に誰かが家族を悪く言うと、家族を貶されたように感じるのと同時に、自分自身が傷つけられたような感覚になってしまう。その矛盾が苦しかった。結局、あんだけ喧嘩して殴り合って、酷い言葉を散々浴びせられていたのに、家族を庇いたくなる気持ちが消えなかった。
3歳の頃から「離婚した父親に顔が似てるから気持ち悪い」と言われ続けたことを、私は忘れたことがない。それはただの冗談じゃなかった。5歳の時には、「お前を産んだのが間違いだった。こんな子だと知っていたら産んでいなかった」と言われた。言葉は鋭利な刃物のようで、その度に私は心のどこかが削られていった。7歳の頃には「大人になんて口をきくんだ、目上の人を大事にしろと小学校で習わなかったのか? 生意気な子だね」と嫌味を言われ、言葉が喉に詰まって、それ以上何も言い返せなかった。自分の存在を、次第に小さく感じるようになっていった。
9歳になってギターを習い始めた時も、「お前はそんなにギター下手くそなのに、なぜ教室を続けられる?」と冷たく突き放された。何もかもが、無意味に感じられた。努力しても報われないと感じる瞬間は、成績が伸び悩む10歳から11歳の中学受験期に一層強まった。「何も努力していない成績が伸びないくせに、なぜ私から塾代を取っていく?」と責められる度に、自分が存在すること自体が間違いなのではないかと、心の奥底で考えるようになった。
そして12歳、塾には通っていたけれど、学校には足が向かなかった。いつしか不登校になり、完全な引きこもりに陥った。そんな私に、母は「鬱は甘え、不登校は気持ちの問題だ」と言い放った。「いつお前は外に出るんだ?」と責め立てられた日々は、今でも鮮明に覚えている。それでも、彼らが自分のしてしまったことの重大さに気づいたのは、私が引きこもりになってしばらくしてからのことだった。
けれど、謝罪は一度もなかった。暴力を振るったことも、言葉の暴力も、全ては「そんなことあったかしら?」とはぐらかされ、なかったことにされた。私は自分を虐待児だと感じるほどの酷いことをされてきたとは思わない。衣食住には困らず、習い事や塾にも通わせてもらっていた。それに感謝すべきなのかもしれないけれど、それが「私の子供はこんなにお金をかけてるのよ」とアクセサリーとして使われていたのだと気づくのに、ずいぶん時間がかかった。
お金をかけてもらったからこそ、知識や教養は得られたし、それが自分の自信の一部になっているのは確かだ。でも、いつも「お金が、お金が」と言われ続けたせいで、私は極端にお金に敏感になった。無駄遣いが怖くて、常に自分をケチだと思ってしまう。小さい頃から「お前なんか」と言われ続けたせいで、いつもどこかで「自分なんか」という気持ちが心の奥に根付いている。努力しても無駄だ、才能がない、そう言われた過去が、今でも私の中で響いている。新しいことを始めるのが億劫で仕方がないのは、そのせいだろう。
でも、それでも私は今ここに生きている。過去がどれほど私を縛っていようとも、結局、それはただの影にすぎないのかもしれない。影は消えない。消えることはないけれど、いつか、少しだけでもその影が薄くなる時が来るのだろうか。自分に問いかけながら、それでも歩み続けるしかないのだろう。未来なんて見えないし、希望なんて一瞬で消えてしまう儚いものだけれど、それでも私は今日を終えるために、明日を迎えなければならない。
だから、あの言葉に戻る。何度も繰り返してきた、家族や自分を責めたあの日々。でも結局、彼らを非難することも、自分を守ることも、もうできやしない。ただ、過去を手放すこともできない。だからこそ私は、このままでいいのか?と自問自答を繰り返してしまうのだ。何も変わらないのに、いつか変われるかもしれないという期待を捨てきれないまま。足元が揺らいでいるけれど、きっとその揺れに慣れていくのだろう。それが生きていくということなのだと、信じるしかない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?