代替不可であれ
中山可穂さんの「深爪」を読了しました。前回の『天使の骨』に引き続き物語の主軸は女性同士の恋。それから今回は家族の絆というか…手に取ることのない、形ないものに縋り付いてしまう人間の性(さが)であったりとか。
女性との恋にどうしようもなく溺れてしまった一児の母である吹雪は夫と息子を置いてある日突然家出します。母親というこの世で1番責任のある仕事を放棄して恋に夢中になれる軽薄さ、それでも親権は私に譲れと夫に言う図々しさ、したたかさ。でも彼女のそういう我儘に喜んで振り回されに行く特殊な人間がなつめ(女性)と夫の松本清(通称マツキヨ)でした。…それが恋なのか!
一編目、「深爪」はなつめの話。吹雪と別れてからじゅくじゅくと傷が膿んで、熱を出したり満身創痍になっている。最終的に彼女は次の恋人(もちろん女性です)を見つけて、明るくなるわけですが。
吹雪を落とした時を回想するなつめの言葉。
不躾な言い方ですが、めちゃくちゃエロくないですか?清々しいほどの自信と女ったらしぶり。彼女を傷つけないように、じっとり愛するために深爪にした指で薄い氷を水面から持ち上げるように。最初は彼女の邪魔にならないところからそっと愛せればいいと思っていたにもかかわらず、そのうち、夫と同じベッドで寝ないでほしい、夫とセックスしないでほしい、別居してほしい、離婚してほしい… 愛せば愛すほど求め過ぎて粉々になる。
相手に自分と同じ量の愛を求めてしまうと、人格崇拝や合理化のハードルを上げてしまうんだろうなと思います。
それは愛だけじゃなくて、努力の量や期待値など、何にでも当てはまるんだけど、1番分かりやすいのはやっぱり好意なんでしょうね。
お互いの優先順位が乖離していたり、その辺の価値観がまるで違うとうまく行かなくなる
しかも、人妻でさらに子供がいる、融通が効かない立場だと独身のなつめとはいろんな不具合が出てきて当然です。頭ではなつめも吹雪も何を優先すべきで何を大切にすべきか分かってたはず、でも、歯止めが効かない。
底なしの沼に溶け合いながら求め合う切なさと一瞬の快楽を永遠の幸せだと錯覚し(そう思いたいだけ?)それに縋るように何度も求める様子は紛れもない「依存」が孕む官能さと色気が吹雪となつめにはある。というより2人の関係性にはある、といった方がいいかな。
二篇目の「落花」は吹雪が語りです。
正直、吹雪は既に述べたように母親として、女として、あまりにも自己中で子供まで振り回す大人気ない人なのであまり理解できません。でもそこまで心から自由に恋できるのってもはや才能なのでは。感情に支配されがちな人っていますが、その代表例みたいな女性。
自分の感情が理性の先を行ってしまうのは大変そうだけど、彼女はそれをどこか楽しんでいるような気がします。どこかに留まる安全な幸せよりももっとリスキーに求められることで本当に愛されると感じるんですかね
異性愛者として男性と結婚したあとに同性愛者(レズビアン)の集まるパーティーに顔を出す時点でぶっ飛んでます。
地方公務員として真面目に働く夫と結婚しておきながら、ポルトガル語の翻訳者をしているなつめや売れっ子詩人の笙子さんなど、フリーダムに仕事している方ばかりを選ぶあたりも皮肉ですね。
でも私は常に発情しているような文学や音楽や女性は好きじゃないです。もっとお淑やかに恋しなされ!
あとは彼女が語る女性同士のセックスの描写が、さらりとしてるくせに濃密で五感を研ぎ澄まされた感じです。文だけでイケるとか見てるだけでイクとかかなり特殊な性癖を持ってる方がこの世にはいる見たいですが、なんか分かる気がした
ところで、親の自覚というか、意識的な部分での自立というか。どのタイミングで芽生えるものなんですか?母親(というか女性)は肉体的にも精神的にも1人出産するにつき10歳も歳をとると聞いたことがある。その分、妊娠を境に体の変化や心の変化は著しいので母性を自覚しやすいメカニズムはまだ理解できる気がする。このロジックで話すと、男性は妊娠”させる”ための器官しかないので、内側からの自覚があまりにもない。骨盤が開くこともなし、お腹が膨れることもない。良くも悪くも一生、”精子提供者”でしかない。今のところ女性に精子を提供し、妊娠させた男性は自動的にその子に対して責任を伴う「父親」という存在になることがスタンダードですが、人間と同じ祖先を持つ猿なんかは父親という役割ははっきりなくて、一匹のメスを孕ませたら次に行くことが普通みたですね。その方が効率よく繁栄できるし、生物として理にかなっていることは一目瞭然なわけですが。しかし、人間は前頭葉の発達のせいで責任とか倫理とか社会的だとか、生殖意外のことも考えながら暮らしているので、そういうわけにもいかなくなってしまいました。
極論、父親の役目は精子提供者出なくてもできるし、もっと言えば母親も絶対に卵子提供者が務めなきゃならない絶対的な理由ってないと思う。
まあ、せっかく前頭葉が発達して考えられる脳があるんだから、子供の幸せを考えずに作り続けるのは元も子もない話ですし、養子や児童施設などは未だにマイノリティですが、この根本的なところをもう一度見直してみると、いろんな家族の形があっていいはずだよなと思います。たとえ育ての親と産みの親が違くても問題はそこではないんだと思います。
嵐(吹雪とマツキヨの息子)が吹雪と別れた後に吃りが出たように、まだ幼い子供にとって親、もっと言えば一緒にいる時間が長い母親の存在はあまりにも偉大であると、何故か漠然と怖くなった。離婚関係の裁判や調停で女性有利である理由がよくわかる。
マツキヨは妻が家に残して行ったカーディガンや下着を身につけ、口紅をひき、香水をふってなんとか嵐を安心させようと試行錯誤する中で、そのことに気づきます。
後々親権を吹雪に譲るのですが、頑なに親権を譲ろうとしなかったマツキヨが男性の、もっと言えば父性の限界を感じるシーンが切なかった。
男性として妻のことも満足させられず、父として子供のことも幸せにさせられなかったと気づいた時の屈辱感は計り知れないものだったはずです。
さっきの話に戻りますが、男性にとって妊娠・出産は体外的ない事であるのにどうしてここまで自分以外の人間に尽くすことができるようになるんですかね?不思議です。
マツキヨは「家族の絆」と色も味もないようなものを信じているようですが、それも不思議。紙切れ一枚でつながり、子供を作るだけで色濃い絆の意識が芽生えるの不思議。群を作る動物もたくさんいるし、それは本能なんですかね?
人間の場合、もちろんそれまでの過程がある場合が殆どですが、他人から何事も責任を伴う存在になるってかなり荷重だと思う。だから結婚してる人本当すごいです。
他人のまま結婚したいと思うのはわがままなんでしょうかね。
そうであってもなくても、代わりなんていない存在になってみたい。
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