「逆境の中でこそ。」
昨日に引き続き安藤忠雄著・「連戦連敗」から。
1960年代日本を振り返った時に、経済が急成長し都市の再建と拡大が急速に進んだ理由は緊張感があったからだと安藤さんは言う。
当時は敗戦後死物狂いで走り続けた人々が少しずつエネルギーを自分の内側に向けられるようになった時代。
生活水準は現代日本ほど裕福ではなく決して満たされてはいなかったけど、
満たされないその思いをなにかにぶつけようとする意欲や情熱があり、なにもないところから這い上がる緊張感があったと。
そしてその緊張感が深く・遠くまで思考を及ぼす精神的強さを生んでいたと。
現代の日本人でこの緊張感を持っている人はほとんどいないと感じる。
それは当たり前で、緊張感なんか持たなくても生きていける超安心安全で豊かな国になったからね。
ただ、緊張感の欠如が思考判断力の無さ、そして精神的弱さに通じてしまっている。
学ばない、気が遣えない、継続できない、なんかも緊張感が無いからだ。
明日食えるかわからない。まともな生活ができるかわからない。という緊張感が思考判断や五感が研ぎ澄まされるんだ。
本の中で、コストや条件が苦しくギリギリの緊張状態の方が意外と良い建設が生まれることが多いと書いてあったけどそういったクリエイティビティだって磨かれる。
じゃあ、なんで緊張感が全体的な思考判断や感性に良いかと言うと単純で、
緊張感がある状況とはつまり考えざるを得ない状況のことだからだ。
ギリギリに追い込まれれば、自分は何をしたいのか?そのために今何をするべきなのか?を突き詰めて脳みそをフル回転で使うことができる。
半ば強制的ではあるけど、その状況になればどんな人間でも考えられるようになる。
それでも考えることが出来なかったら死ぬだけだ。
じゃあどうすれば緊張感を生むことができるかというと、逆境の中に身を置けばいいんだ。
運が悪くとか周りのミスからとかから逆境に立たされるんじゃなくて(それでも良いけど)、自分から率先して逆境に身を置くんだ。
主体的に逆境に身を置けば、誰のせいにも出来ないからさらに考えるようになるからね。
どんなに苦しくても絶対に自分のケツは自分で拭く覚悟は持つべきだ。
安藤さんが影響を受けたという建築家ルイス・カーンは、
と言った。
モノが溢れすぎている現代こそクリエイティビティが必要な時代。
クリエイティブじゃない仕事は機械が代わってやってくれるからね。
クリエイティブじゃないと単純に生き残れないんだよ。
だから、自分は何を創り出せるのか?繋ぎ合わせられるのか?それを考え実行出来るのと出来ないのでは大きな格差が生まれる。
モノが溢れている時代だからこそ、クリエイティビティが必要な時代だからこそ、自ら逆境に飛び込み創造するべきだ。
逆境に身を置くと、自分には知識も力もなにもないんだと痛感する。
ただ、何もないは何も出来ないということではない。
戦後から1960年代日本のように、何もない逆境から持ち這い上がってやろうという緊張感が何かを創り出すんだ。
「なにもない」とは嘆きの言葉じゃなく、「これから何でも創り出せる」という希望の言葉だ。