自分と仕事のズレ感に長年モヤモヤと悩むも、やりたいことにチャレンジするために退職・独立に至る44歳4児の父の物語 <第一話>
約15年前の30歳。結婚して子供ができて、親が病気で倒れたあたりから、生まれて初めて人生についてきちんと考え始めた。
それまでは「どこかに面白い事は落ちていないか」くらいの享楽的な人生を送り、幸い要領がよく口先が立ったので、良い大学、良い会社と比較的安定した生活を築いてきた。
大学は偏差値だけで選び、学科もなんとなくの響きだけで決めた。バイトと合コン三昧の生活の中、ギリギリで単位を取得し、4年生で研究室を決める際には寝坊して余っていた研究室に配属された。その研究室の教授推薦で化学メーカー二社のうち「どっちが楽ですか?」と教授に聞いて「こっちかな」という方を選んだことで化学業界でのキャリアが始まった。それでも何の迷いも後悔も心配もない楽しい人生を送ってきた。
そんな中、両親ともに倒れ、家の借金に向き合う機会ができた。けど、具体的なことは何もできなかった。そして子供も生まれ、自分の背中で何が語れるだろうか、としきりに考えるようになった。当時はホリエモンや孫正義などのIT起業ブームで自分もなんとなく起業したいと思いが生まれ、自己啓発書をたくさん読み始めたのもこの時期。
それでも起業するでもなく、とりあえず世界でも広げようと外資系企業に転職。そのときも転職先の名前も知らずに、ただただエージェントに勧められた世界一の化学メーカーというフレーズに惹かれて転職し、英語も話せないまま運よく入社できた。しばらくは外資系という環境変化と英語に戸惑い、必死についていくのが精いっぱいだった。
それでも2~3年も経つと英語や仕事にも慣れてきて、また自分と仕事のズレに悩むようになり、朝の出社前、昼休み、会議中に自分とは何か?何がしたいのか?とモヤモヤと悩み、本を読み、紙に書き、という内省時間がぐっと増えてきた。休日も内省や何かしらの活動に時間を割きたくなり、家族との時間が億劫になってきた。
だんだん目の前の仕事や家族にも腫れ物に触れるように接するようになり、現実を楽しめない焦り、会社や家族に申し訳ない感覚、早く何とかしないと、という気持ちだけが大きくなり、お盆休みや年末が来るたびにに「あー、今年も何もしなかったな」と思うようになった。
それでも人生は続き、仕事はそれなりに出世を続け、いつの間にか子供は4人になり、マンションには入りきれなくなり一軒家を購入するなどと、現実は一見順調、でも内面では重石がどんどんどんどんと重くなっていく不自由さを感じていた。
そんな現実から逃れるように、社会人になるにつれて意味がない、稼げないと諦めてきた自分の好きなこと、得意なことを遊びで再開しよう!をコンセプトにしたセミプロのユートピア「セミピューロ」というホームページを作ってみたり(現在閉鎖中)、
その中で生まれた企画で、行き場のないシモがかった話を成仏させる座談会「下試し(しもだめし)」がメディアやテレビに取り上げられたりと熱中する活動もいくつか生まれてきた。
そのうち会社よりも、そちらの活動の方が自身のアイデンティティーになり、自分の職業を他人や子供に語ることはなくなってきた。とはいえ下試しは子供にも言えないし、収入になるわけでもなく、ますます自分とは何だろうかの捻じれが強く強くなってきた。
今思えば、あのころはバーンアウト、うつ病の直前か、一歩踏み込んだ状況だったと思う。表面上は外資系エリートで子供四人の一軒家、仕事以外でも何かと活動をして、エネルギッシュでそれなりに成功している人生に見えていても。
これは、大きな問題だなと、この問題を自分だけではなく、同じように苦しんでいる人たちも救えないか、社会からその原因を少しでも取り除けないかと考えるようになってきた。
つづく
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ついでに外資転職から学んだ英語学習法です。