食と自律
私は美味しいものが好きだ。
棺桶には花や思い出の品より、各地の名産品を入れてもらった方が喜ぶくらいに。
ただ最近お世話になっている方と話していた折に、私が
「美味しいものを食べることさえできれば生きていける!」
という趣旨の発言(もちろん詭弁w)をしたら、その人は
「美味しい物ばっか食べていると本当に美味しいものがわからなくなる。だから時には不味くてもしょぼい飯も食べなきゃダメ。」
と言ってきた。決して説教をされているわけではない(はず...)。
そのときは、強弱やメリハリを付けるからこそ人生において何事も楽しめるのである。という解説をつけてくれた。
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なんとなく、自分のなかで食とはどういう存在で、その人の話を聞いて、
どういうリストアを行えばいいのかという無限思考の道へ入った。
あれからあの一言を考え、それっぽい結論に達した。
「上限ばかりを追い求めるのではなく、加減を知り、律すること。」
お気づきの通り、加減と下限を掛けたところが納得ポイントだ。
その人は常日頃から「余剰」という言葉を使う。
どういうことかというと、私たちの生きている世界は、生きるのに必要最低限なレベルを優に超え、無くてもいいものであふれているということ。それが余剰ということ。
何気ない日常の食にも舌を活かし、それはそれで有難く美味しいものだと知ろう。
そう思った。
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この文を書いているときにふと、中国の昔の人もなんか言ってたなと思い出す。
足るを知る者は富み、強(つと)めて行なう者は志有り。(老子)
大学生で老子のようなことを言ってくれるような人に会えたことに、4年間の意味があったと思いたい。