私の中のミソジニー
私のミソジニー小史
「差別はいけない」と思いつつ、自分の感情の動きをつぶさに見ると、女性や女性らしさに対する嫌悪感(ミソジニー)があることに毎度気づく。
しかもそれは最近にはじまったことではない。物心ついたころからだったように思う。小学校のクラスで、泣いている女子にぞろぞろと他の女子が駆け寄って慰めている様子を見て、「いいよな女子は。泣けば誰かが味方になってくれんだから。」とうんざりしていた。マラソンや漢字のテストなど、何かを競う際にはいつも、「何があっても女子にだけは負けたくない。」と思っていたし、実際に負けそうになるとあふれんばかりの闘志をむきだしにすることもあれば、「何必死になってるの?笑」と頑張る女子をあざ笑っていた。
高校の時などは、授業中に妻の愚痴を言う先生に同調して、「女の人ってこういうところありますよね。」と女性への呪詛を語ったところ、クラスメイト(特に女子)に戸惑いや冷徹な目を向けられたことがあった。愚痴を言っていた先生も、最初は私に共感を示していたものの、私がヒートアップすると、我関せずの態度をとった。このように高校の頃の私は、周りが見えなくなるほどのミソジニーを有していた。
しかし皮肉なことに、それほどまでのミソジニーゆえに、大学に入ってからは、ジェンダーに関心を持つようになった。ここでやっと私がミソジニストであること、女性に対して歪んだ認知を持っていたことに気づく。
脱・ミソジニスト宣言!! しかし・・・
そして、脱・ミソジニストを誓った。しかしながら、私に刻まれたミソジニーはそうした誓いも空しくなるほどに深かった。特にマッチングアプリをしている時は、理性的制御が効かず、頭の中がミソジニーに満たされることがままあった。
「『リードしてほしい』とか『彼氏の助手席に立候補!』とか言ってる女は自分から下の位置に成り下がり、そのことにすら気づいていない愚かな人間。」
「デートプランは男が決めなきゃいけないのか?責任取ったり決断したりするのはいつも男じゃん。いいよなお前らは。全てを男に委ねればいいんだから。」
「『笑わせてくれる人、面白い人が好き』って。俺らはエンターテイナーじゃないんだよ。」
「『いろんなところ連れてってくれる人が好き』ってお前も俺をどこかに連れてってくれよ。」
といった具合で、プロフィールを見ては憎しみを募らせていた。そしてこのような憎しみから私は以下のような結論を導き出しさえした。
「女性は、結局何でもこっちが決めて、リードしてあげるような“男らしい”人が好きなんだ。そうするとモテてる男は、その“男らしさ”を体現してるやつだ。じゃあ付き合ってる連中は、自分たちが悪しきジェンダー規範を強化していることに気づかずに恋だの愛だのに酔ってるんだ。キモすぎ。」
どうしてこんな極論を導き出してしまったのか。マッチングアプリをしている当時は、冷静に立ち止まって考えられなかった。しかしアプリから足を洗った今はその理由が分かる気がする。
マッチングアプリをしていた当時の私は、一日に少なくとも1時間はアプリに時間をかけ、真剣に取り組んでいたにも関わらず、一向に交際にこぎつけないことに苛立ちを覚えていた。しかも、自分がいいなと思った人に限ってうまくいかないことが続いたため、周りのモテる男に対する劣等感や、「自分には恋愛は向いていないのではないか」という不全感も募らせていた。
先の極論は、こうした苛立ちや劣等感や不全感に何かしらの理由、それも自分が一切傷つかないような都合のいい理由をつけようとした結果導き出されたのだと今では考えることができる。恋愛がうまくいっている人間を正しくない側に置き、恋愛がうまくいかない自分を正しい側に置くためにジェンダーの知識を引っ張り出した。ジェンダーの知識を使って批判的に検討すべきは、そうした苛立ちや劣等感や不全感を生みだす過程だったはずなのに。
例えば、マッチングアプリでうまくいかなかったために抱いた「苛立ち」という感情。これは私の学生時代の成功体験との落差によって生じたものだが、批判的に検討すると、その成功体験が幻想であることが見えてくる。
学生時代、私は学校に一人はいる、女子がほうっておかないタイプの物静かなイケメンだった(自分でこのように形容することは大変痛々しいのだが、話が先に進まないのでとりあえずそういう者として読み進めていただきたい)。そのためか、数えるほどではあるが、告白されたことはあった。だから「成功体験」というのが全き幻想だったかというとそうではない。だがその時の私がおおいに勘違いしていたのは、「イケメン。」「かっこいい。」と女子から言われることで以て、自分は男として価値がある、あるいはモテる人間なんだ、と認識していたことだ。
しかしジェンダーについて多少なりにも知った今、その認識が誤りであることに気づいた。ジェンダーの文脈でよく言われるのが、男性と女性の視線の非対称性だ。男性は見る主体で、女性は見られる客体。両者の間には、主体/客体という上下関係が存在する。しかもそうした視線の力学は男女双方に内面化されているため、男性が女性の価値を見定める際に容姿に重要性を置くほどには、女性は男性の容姿に重要性を見出していない。美女と野獣はよく見聞きするが、その逆はあまり見聞きしない、というのはそれを裏付ける一つの経験知かもしれない。
こうしたことを踏まえると、私がおかした認知の誤りというのが見えてくる。つまり、私は自分(男)が女性を見るように、女性が自分(男)を見ていると勘違いしていたのだ。その結果、女性による私の外見への評価を、そのまま男としての自分の評価に直結させてしまい、「俺はモテている。」という幻想や、「付き合おうと思えば、いつでも付き合える。」という過信を持つに至った。そしてそうした幻想や過信を、それと気づかず抱いたまま、マッチングアプリをしてみたために、自分の想定とのギャップに苦しむこととなった。なんと甘く愚かな想定だったことか。
このように私が抱いた「苛立ち」という感情は、私の誤った認知から生み出されたものだった。それと同様に、「劣等感」や「不全感」という感情も私の誤った認知、それも女性差別的な認知から生み出されている。
例えば、「劣等感」は、モテる男に対して抱いていた感情だが、ここで私が想定していた「モテる男」とは、経験人数豊富な男のことであった。私が本当に脱・ミソジニストを目指す者であるならば、相手との対等で信頼に満ちた関係を結ぶ人間に憧れるべきものを、女性をただの数に還元させるようなミソジニストを羨んだ。結局私が望んでいたのは、恋愛ではなく女性を手段とした性欲処理だったのか…。脱・ミソジニストを目指す私にとっては、容認しがたい事実だったが、容認せざるを得ない事実だった。
過去を振り返りこのように反省しているのだが、今でも気を抜けば、女性差別的な考えが湧いてくることがある。ミソジニストを脱却するにはまだまだ道が遠そうである。