ジョハリの窓3

「自分が思っている自分」と「周りの人が思っているあなた」、どこまで一致していて、どっちが「本当のあなた」?

タイトルを書いていて早くもゲシュタルトが崩壊しています。

孫子は言いました。「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」――。相手を知ることと同じくらい、自分を知っていることって大事よね。

多くの人は、「自分のことは自分が一番よくわかっている!」と言います。

でも、どこまで自信を持って、そう言い切れますか…?僕はあんまり自信がありません(メタ認知力はそれなりにある方だと思ってますけど、それでもだいぶ自信ない)

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ジョハリの窓ってあるじゃないですか。

これ。有名なやつ。

サンフランシスコ州立大学の心理学者ジョセフ・ルフト (Joseph Luft) とハリ・インガム (Harry Ingham) が発表した「対人関係における気づきのグラフモデル」を後に「ジョハリの窓」と呼ぶようになった。 ジョハリ (Johari) は提案した2人の名前を組み合わせたもので、ジョハリという人物がいる訳ではない。(出典:Wikipedia)

ジョセフさんとハリさんが考えたからジョハリなんだって。

さておき、これ、Twitter、Facebook、Instagram、LINE、YouTubeなどのソーシャルメディアが普及したいまだからこそ、再度注目しておく必要があると思うんです。

注目すべきは、右上の盲点の窓。「自分は気づいていないけど、周囲の人は知っている自分」――。

この窓、ソーシャルメディア普及以前は、近い関係の一部の人にしか見えない窓だったわけですよ。

ダンバー数の定説というのがあって、人はだいたい150人くらいの知り合いの中で生きていると言われます。

友だち、知人、家族、上司、部下、同僚、趣味仲間。年賀状を出す枚数。だいたい150人以内だと。

携帯にはたっぷり電話番号が入っているけど、躊躇なく、すぐに電話することができる人は何人いるだろうか。Facebookメッセージでもいい。TwitterのDMでもいい。LINEでもいい。何人いる? 20人いたら多い方かもしれない。

それくらい、僕らは小さな強い紐帯と大きな弱い紐帯の中で生きている(これ読んでこれ読んでこれ読んで)

ソーシャルメディアの普及によって、ソーシャルグラフ(ソーシャルメディア上の人間関係)はダンバー数の定説を超えて大きく拡大しました。でも、それはWeak Ties(弱い紐帯)であって、Strong Ties(強い紐帯)ではない。

あくまで、たまに「いいねフィケーション」する弱い紐帯

でも、そのWeak Tiesが拡大したことによって、僕ら人類の承認欲求が爆発しました。つながりは弱くても、多くの人から承認を得ることは快感だからです。

・俺(私)頑張ってる
・俺優秀
・俺すごい
・俺イケメソ
・俺友だち多くて人気者
・俺こんなすごい人と知り合い
・俺寝てない
・俺求められてる
・俺仕事できる
・俺引く手あまた
・俺焼き肉食ってる
・俺寿司食ってる
・俺もそこ(お前より先に)行ったことある(やったことある)
・俺料理もできちゃう
・俺実は子煩悩
・俺、俺、俺、私、私、私……

みんな、自分が大好きです。僕はどこの誰よりも自分が大好きだからわかる。いいね最高!

「エアポートおじさん」とか「トライアスロン完走おじさん」とか「濃いメンバーで悪巧み飲み♫おじさん」を責めているのではありません。僕だって、佐渡島210km完走したぜおじさんだし、ピザパ最高だぜおじさんだし、鎌倉生活リア充でまじやばいぜおじさんだし。

何を投稿しようが個人の自由。人類が持つ普遍的な欲求である承認欲求を揶揄するつもりもありません。

ただ、僕らはわかっておいた方がいい。

何を投稿しようが個人の自由だけど、それをどう解釈し、あなたをどうラベリングするかも、受け取り手の自由であることを。

2019年版のジョハリの窓は、こんな感じに形が変わってるんじゃないかと。

自分は、気持ちよく、TwitterやFacebookやInstagramに行動や思考や感情を投稿する。でも、相手は、その投稿を、違う視点や文脈で解釈する。

・ああもうわかったよ
・はいはい、あなたはすごいよ、すごいですね!(メンドクサ!)
・仕事ができるって思われないのね
・友だちが多いって思われたいのね
・人から一目置かれている存在だって思われたいのね
・そこら辺のイキってる奴とは違って俺は本物!って思われたいのね
・家族を愛し、愛されているって思われたいのね
・平日は仕事に全力投球だけど週末もリア充でパーフェクト!って思われたいのね

多くのソーシャルメディアは、いつからか、本当の自分ではなく、見られたい自分が跳梁跋扈する場所になってしまいました(僕もそれに加担しているひとりです)

誰しも、たまの休日に勢い余って夕方まで寝ちゃって自己嫌悪になったり、カップラーメン食べながらテレビ見てだらだら時間を過ごしたり、ヨレヨレのTシャツパジャマ着て部屋でうだうだしたりしているのに、それはInstagramには投稿しない。

きれいな服を着て、バッチリメイクで、友だちと、非日常的な場所で、最高の体験をしている最高の一秒をスマホで切り取り、アプリで丁寧にレタッチをしてから「人から見られたい自分」「羨ましがられたい自分」像を投稿する。

その結果、タイムラインはWeak Tiesによって拡大した不特定多数の、非日常的で極めて人工的・演出的なフィクションで満たされていく。

だからこそ、それに負けじと、悔しい視聴者が、次の非日常投稿者になる。それの無限ループです。

何度も言うけど、それ自体はまったく否定しないし、僕自身もその人類総出で参加する承認欲求充足祭りの積極的な参加者です。

でも、僕らは覚悟しなければならない。

ソーシャルメディアは「自分では気づいていないが、相手は知っている」盲目の窓を今日も全開で拡大し、自分の「こう見られたい」と、周囲の人の「こう見られたいって必死にアピールしている人」というギャップを拡大させ続けていることに。

本当の自分。

人からこう見られたいと思っている自分像。

人が思っているあなた。

たぶんぜんぶ違う。

「ブランドは、消費者の頭の数だけ存在する」と言われます。それと同じで、「あなた(のイメージ)は、周囲の人の数だけ存在する」

あなたが思っている以上に、あなたは自分で思っているようなあなたと思われていないし、人によってもあなたのイメージは少しずつ違う。

どんな人でもそれらすべてを完全一致させることはできないけれど、だからこそ、できないことを認識した上で、これからも楽しくソーシャルメディアを使って行きたいと思うのでした。

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