分かり合えない、の見方とその先に
東京の木々が色づき始めた11月。
先日電車に乗りながら、秋色に染まった景色を眺めていたとき。
紅葉は皆が主役だなと思った。
おゆうぎ会みたいに。
一部分を切り取っても味気なく、みんながいるから輝き成り立つような。
生理前だからなのか、気分がぐーーっと低下気味になるし、常時ドギマギしやすいしでちょっとしんどい気持ち。
こんな時は、いつも以上に自分の欠点や、できないことばかりに目がいってしまうし、責めてもしまう。
そんなの望んでいるわけじゃないのにね。
月によって症状はさまざまで、2週間前から精神状態が乱れる時もあれば、生理が終わったってのに、全く上向きにならない時もあるし。
生理ってさ、自分の求めている理解を得ようとするのはなかなか難しいことだと思うの。
日々変わりやすい身体の機嫌を、タイムリーかつ正確に汲み取ることなんて、自分でさえ難しい。ましてや人に理解してもらったり、伝えていく勇気も含めて、どれだけ難題か。
いろんな論争がある。
SNSでもいろんな考えがとめどなく流れてくる。
ん?と、時折モヤつく考えをお持ちの方も、論点から離れている方もいるけれども、それは自分の意見があるということであり、関心を持って口にできるようなトピックへと変化している事実でもあるんだよな。
だからといってお互いに攻撃するのは違うと思うけれど。
このナイーブな問題が少しでも解決に向かうには、時間をかけて丁寧に伝えていくこと、そして受け止めることが両者にとって大事だと思うんだけど。
正解のないこのような問題は、何が問題とされているのかを理解することが第一に重要だと思っていて。
適切な対応があれだ、これだ、の前にね。
”わかってほしい” という気持ちを抱くのは痛いほどにわかる。
でも先に言ったように身体の調子というのは自分でもコントロールできるものではない。ましてや自分の身体ではないのならなおさら。
私の考えでしかないけど生理の場合、
多くの女性が不調に対しての言動を軽んじて受け止められ、我慢という形での解決に向かったのが大きな問題なのかなと思う。
「あなたのこと信じてませんよ」と、直接的にも間接的にもされているような感覚。
経験もできない苦しみに対して、ただただ理解しろ!!というのはたしかに無理がある気はする。
その分かり合うことの難しさは前提として、
自分が起き上がれないほど体調が悪い時、どういう言動が自分にとって助かるだろうか。
もし仮に、あなたが勇気を出して伝えたものを
「そんなの大袈裟、甘え、毎度まいどさ、、」
「私だって我慢しているんだから」
と呆れ気味に言われたら?
伝える勇気を奪われ、諦めという形へと変わり、我慢という行動にしか移せなくなるのは自然なこと。
痛みを伴う諦めは、痛みという形でしか誰かに与えられなくなってしまう気がしている。
生理の場合は、無理を強いられた女性自身が、だれかを傷つけている可能性も十分に考えられる。負の連鎖は思わぬところで起こったりするから。
経験のできない苦しみへ自分を重ねることはできなくても、経験できることを元に想像力を働かせることは、前者に比べればしやすいと思う。
よくわからない、はわからないとして。
受け止めて信じてあげること。
そしてそこからちょっとした行動積み重ねていくこと。
社会の問題を根本から捉え直し、どのように自分事へ持ってくるかによって世の風向きは微々たるものでも、確実に変わっていく気がする。