私にとって書くってなんだろう
「なんで書くんだっけ」
そんなことを自分に問うてみた。
好きな方のブログを読んでみたり、その人の中身を知らない状態で文章を読んでみたりすると、あらためて言葉の素晴らしさを知る。人って本当に奥深いなあと思うのだ。
自分がnoteにしろ、何にしろ、言葉を書き続けていくことへの意味は他にあるのだけれど、自分にとっての「書く」はまだあやふやなまま。
今回は少し自分を分解してみようと思う。
私は、「話す」というコミュニケーションで、人との距離を縮めていくのが本当に苦手だ。
話すと、人の感情や、言葉の使い方とか、その場の音、表情、どういう言葉の返しをした方がいいかとか。そんないろんなことに注意が散漫になって、落ち着いて人と話すということができない。
だから私、人と話す時ヘラヘラしてしまうんだよね。多分怖いという気持ちを笑って誤魔化してしまっているんだと思う。
じっくりと対話することで、人との距離って多かれ少なかれ縮まっていくものだと思うけれど、人との大事なコミュニケーションツールの前に、私には大きく立ちはだかるものがずっとなくならない。
多分そんなこともあって、話して伝えるというものがとても不得意なのだ。
こんな状態は、幼い頃からずっと続いていたように思える。
まあ、振り返ればというだけで、常日頃こんなことを感じていたから書くようになったわけではない。
きっかけというきっかけは、私の父が ”3年日記” を続けていて、私もやりたい〜!なんてところからだったような。
もちろん、小さい頃の日記なんていうものは、そう長くは続かない。だけれども、その時に得た「書く」という表現手段が、自分のその時に伝えられなかった気持ちだったり、記憶を書き留められたのは、自分にとって、とても救いだった。
そうやって苦しい時も、楽しかった時も、なにかと書くことで自分の心を整理していた。それが今のように定着していったのだと思う。一番手短に、自分のことを伝えられるコミュニケーションを使いこなすことは未だにできないけれど。
こうやって振り返ると私にとっての「書く」って、自分の中身を1番そのままの状態で伝達できるものなんだろうな。話すというのは直接的に、瞬間的に自分のことを処理できているからできるし、話す行為に一定の安心感を得ているからこそのものだと思っている。
私は、考える時間をたくさん費やさないと、言葉を発することができないタイプだし、先に言ったように、その行為に安心することがほとんどない。
自分が安心して、かつじっくり考えて自分の中身を表現できるのが、私にとっての「書く」という時間なんだと思う。
楽しく話している人の動画を見ることも、お話が上手な人のことも、とっても羨ましいけれど、書くという手段が私には、ある。それだけでいいって今は思えている。