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いつかは行きたいフランス! サルトル「嘔吐」なグルメ#1 谷崎潤一郎の鉄道病

 サルトルの『嘔吐』(1938年)を初めて読んだのはいつだったろう。
 中学生の時だったような気がする。
 いや、高校生か。
 それが、祖父母の家の応接間の書棚から持ち出した中央公論社「世界の文学」シリーズの一巻だったこと、それを陽のあたるベランダでじわじわと読み進めたことは覚えているのだが、記憶が曖昧だ。

(別の訳者による新訳が出た)

 そもそも、なぜそれを読もうと思ったのか。
「嘔吐」という変な(?)タイトルに惹かれたためか、サルトルという名前だけは広く知られているらしい哲学者がどんなものを書いたかに興味をもったためか、定かではない。
 覚えているのは、読むのにえらく時間がかかったことだ。
 一日で見開き二頁という日もあったのではないか。
 読んでも意味がわからないからだ。
 世の中に、これほど理解できない文章があるのかと思った。
 それでも、亀の歩みで最後まで読み通した。
 読み通したところで、「で、これは何だったの?」と問われても答えられない。
 それ以来、この作品は自分にとって〝謎〟であった。
 あれは何だったのだろう?
 何を書いたものだったのだろう?
 心の隅にずっと引っかかっていた。

谷崎潤一郎の鉄道病

 ところが最近、その謎を解くカギを見つけたような気がした。
 谷崎潤一郎の『恐怖』(1913年)という短編作品を読んでいた。

 これは「鉄道病」について書かれたものである。
 鉄道病とは、汽車に乗ると恐怖を感じて頭に血が昇り、冷汗をかいたり悪寒がしたりする病のことを言うようである。
 次のように。

「誰れか己を助けてくれエ! 己は今脳充血をおこして死にそうなんだ。」
私は蒼い顔をして、断末魔のような忙しない息遣かいをしつゝ、心の中でこう叫んで見る。そうして、洗面所へ駈け込んで頭から冷水を浴びせるやら、窓枠にしがみ着いて地団太を蹈むやら、一生懸命に死に物狂いに暴れ廻る。
どうかすると、少しも早く汽車を逃れ出たい一心で、拳固から血の出るのも知らずに車室の羽目板をどんどん叩きつけ、牢獄へ打ち込まれた罪人のように騒ぎ出す。果ては、アワヤ進行中の扉を開けて飛び降りをしそうになったり、夢中で非常報知器へ手をかけそうになったりする。それでも、どうにか斯うにか次ぎの停車場まで持ち堪こたえて、這々の体でプラットフォームから改札口へ歩いて行く自分の姿の哀れさみじめさ。戸外へ出れば、おかしい程即座に動悸が静まって、不安の影が一枚一枚と剥がされて了う。

 その鉄道病患者に、どうしても鉄道で移動しなければならない事情ができてしまう(徴兵検査)。
 汽車ではなく電車なら大丈夫と思っていたら、電車でも発症することが判明する。
 でも、どうしても乗らなくてはならない。
 そこでその人物は、鉄道病の症状を誤魔化すために、ウイスキーをがぶ飲みするのだ。
 強烈な酔いが回る。

五条橋の袂を、西東から行き交う人々の顔が、みんな汗にうじゃじゃけて、赤く火照って、飴細工の如く溶けて壊れ出しそうに見えた。絽縮緬や、明石や、いろいろの羅衣にいたわられて居る若い美しい女達のむくむくした肉が、一様にやるせない暑さを訴えて、豚の体のようにふやけて居るのを見た。汗………夥しい人間の汗が、蒸し蒸しした空気の中へ絶えず発散して其処辺一面に漂い、到る所の壁だの板だのにべとべととこびり着いて居るらしかった。(…)
活動写真の布カンバスへ皺が寄るように、時々、街路の光景が歪んだり、凹へこんだり、ぼやけたり、二重になったりして、瞳に映った。

 これを読んで私は、『嘔吐』じゃん、と思った。

ぶうッ、ぶうッ、ぶうッ、物凄い鼻息を打っかけて、傲然と出発の用意を整えて居る車台を見ると私の神経は、アルコールの酔を滅茶々々に蹈みにじり、針のような鋭敏な頭を擡げて顫え戦き出した。同時に居ても立っても溜らないような、一遍に魂を引裂いて発狂か卒倒の谷底へ突き落し兼ねないような、どえらい恐怖が五体に充満して来たので、私は思わずハッと躍り上った。
「君、君、僕は今切符を切って貰ったんだが、少し待ち合わせる人があるから、此のあとへ乗るんだ。」
掛りの男にこう断ると、例の氷包を額へあてながら、私は遮二無二人ごみの流れに逆って、周章狼狽して、悪魔に追わるゝ如く構外へ逃げ延びた。そうして、ベンチへどたりと崩れて、漸く胸を撫で下した。何処かで後指を差して自分の様子をゲラゲラ嗤って見て居る奴があるかも知れん。………

 これは『嘔吐』で、主人公が会食中に気分が悪くなって、思いつきで路面電車に飛び乗って、飛び下りて、公園に入って、手近のベンチに倒れ込むというあの場面そのものではないか。
『嘔吐』は1938年、『恐怖』は1913年の作品である。
 谷崎の方が先なのだ。
 それで短編の結末はと言うと、駅のホームでずっと電車に乗れないでいると、たまたま友人に出会う。その友人と吊革に一緒につかまって、おしゃべりをしながら電車に乗っていると、何だか無事に目的地までたどり着けそうな気がしてくる(*‘∀‘)
 そこで小説は終わる。
 ただそれだけの話である。

 この作品を知って私は、『嘔吐』も同じように理解すればよいのではないか、と思った。
 あれは体調不良を描写した作品である、と。
 そもそも、なぜ私は『恐怖』から『嘔吐』を連想したのか?
 それは、両作品がともに、〝気持ちが悪くなるさま〟を描いているからだ。
 吐き気小説――そんなジャンルがこの世に存在するか知らないが、そう素直に了解すればよいのではないか。
 サルトルの『嘔吐』も谷崎の『恐怖』も、吐き気を精密に描写する「吐き気小説」である、と。
 考えてみれば、吐き気を含む病気の諸症状は、小説家にとって、いかにも表現し甲斐のありそうな対象ではないか。
『嘔吐』は、ときどき主人公を襲う正体不明の吐き気を追体験するように愉しめばよい作品なのではなかろうか。

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井川夕慈
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