『マキャヴェッリ『君主論』の前半だけをスケルトンにして味わう』#1 歴史はこうなっている
はじめに
ふとしたはずみからマキャヴェッリの『君主論』(一五三二年)を読んだ。
意外に面白かったので、形にしておきたくなった。
全二六章。
この書を、大きく二つにぶった切ってみたい。
「第一五章 人間が、とくに君主が、称賛されたり非難されたりする事柄について」に次の文章が出てくる。
私が目をつけた〝境目〟は、ここである。
ここから先は、よき君主であるためには、権力を長く維持するためには、君主たる者どうしなければならないか、について書かれていると思う。
日本人は『君主論』が好きなのだろうか。
意外に多くの関連本が出されている。
しかし、私個人の勝手な印象だが、それらの大半は〝自己啓発本〟の類いとして読まれているのではないか。
つまり、ビジネスに活かすとか、よきリーダーになるとかの目的で。
例えば……
そして、これらの書き物が主に参照しているのは、先ほどの文、つまり第一五章以降の〝後半〟部分ではなかろうか、と思うのである(読んでいないので推測である)。
これに対して、第一章から第一四章までの〝前半〟には何が書かれているのか。
《俯瞰すれば歴史はこう見える》ということが書かれている。
そもそもこの書は、ニッコロ・マキャヴェッリ(一四六九~一五二七年)が「偉大なるロレンツォ・デ・メディチ殿下」に献上した品なのである。
冒頭に次のようにある。
つまり、自分は何も持っていないからレポートを差上げます、と。
何についてのレポートかというと「偉大な人々の行動」である。
偉大な人々の行動は、歴史をつくる。
つまり『君主論』は、歴史分析の書である。
マキャヴェッリが自身の読書経験と実体験とを通じて獲得した《歴史はこうなっている》という認識を伝えるものである。
それが〝前半〟だ。
その認識を踏まえて、「君主はかくあるべし」を述べたのが〝後半〟だろう。
私が興味を覚えたのは〝前半〟つまり《歴史はこうなっている》の部分である。
そのため、本書は『君主論』の前半だけを取り上げる。後半については触れない。
また、マキャヴェッリは自説を裏づけるために、ギリシアやローマやイタリアの歴史を引っ張ってくる。
自説はこうである、例えば、あの時どこそこで誰々はどうした、その結果どうなった――というように。
しかし、ヨーロッパの歴史の素養に乏しい私には、それらの例証は煩わしく思われた。歴史を知らないのだから、それによって説得されるはずがないではないか(と開き直ってみる)。
そこで、それら歴史上の具体的事実によって肉づけされた部分は無視して、論旨だけを追うことにした。
いわば、肉を削いで、骨だけにしてみた。
そうして骨格が明らかになってくると、何となくその上に〝肉〟を被せたくなる。私にとってより馴染みのある「日本の歴史」という〝肉〟を。
すると、一六世紀にイタリアで書かれたこの本が、意外なほど面白く読めたのだ。
本稿のタイトル――マキャヴェッリ『君主論』の前半だけをスケルトンにして味わう――とは、そういう意味である。