芸術は長く、人生は短し
私は法学という、ある意味批判学問を学んできて、自分はなんでこんなに才能がないのかと落ち込んできた。けれど、団藤重光先生の法学入門に「芸術とちがって法学には天才はありえない」とあって、救われた気がした。才能よりも努力なのだと思った。
学問と芸術
諸学問の一部分、芸術と相容れない部分もあることは事実だと思う。しかしながら、法学の中の芸術性というものを感じている。自分を構成する諸学問も芸術性を有しているのだ。それぞれが、自分の中の感性と融合して、芸術的な側面を連鎖的に生み出しているのだと思う。
批判的な目
時に、法学的な批判の目で写真やアートを見てしまうことがある。批判、つまりは分析的な目だ。好きな絵や写真を見る時くらいは法学的な目線に黙っていてもらって、純粋な感度で感じたいと思う次第だ。
天才性
団藤重光先生の法学入門の冒頭、初めにの中に書いてあった"法学には天才はありえない"という言葉。私は天才ではないから、この学問を専攻したのだと思った。元来コツコツと物事を積み上げていく性分だ。
しかしながら、数々の天才たちとの邂逅で私は劣等感を感じた。劣等感に晒されながらも、天才たちに一歩でも近づきたい。同じ世界がみたい。そう思って、努力をしてきた甲斐があってか、周りからはたくさんのことを知っているとか、優れているように言われることがある。
別に特段、人より優れたものを持って生まれた訳では無い。天才では無いのだから。私が私の人生で誇れるものがあるとすれば、それは人が1を極める時間を10の事のために少しづつ分散して割いて積み上げてきたことだと思っている。
ダ・ヴィンチ
学生時代には、レオナルド・ダ・ヴィンチに憧れを抱いた。美術館のダ・ヴィンチのブロンズ像を見て、万学の天才を前に誓ったことがある。それは、「貴殿のように、万学に及ばずとも天才に及ばずとも、努力を続けます。いつかあなたのように偉大な人になります。」ということだ。
天才に挑むだけの知力技量などないが、努力は研ぎ澄まされれば天才のそれに迫れる。そう信じて、本もおそらく数えていた頃でも5000冊以上は読んでこれた。実践もかかさずその知識を実学になるように、社会で発揮してきた。
而立
孔子に曰く、齢30にして而立(じりつ)。独立した立場を持つようだ。奢らず、高ぶらず、次のディケイド(10年間)に繋がる布石を打っていきたいと思う。人生は勉強だ。法学も諸学問も芸術も人それ自体も。
学問と芸術
学問には、法学、経済学、倫理学などがある。しかし、芸術や美術には学問の学を当てることも出来るが(芸学、美学)どこか相性が悪い感じがする。それは論を立てて結に結ぶ学問の性質と、芸術や美術が術(すべ)、つまりはそれ自体が手段というところに差異があると思う。
探求することは共通するのだと思うが、芸術作品に結論は必要が無いように思う。なにかの主張やテーマはあっても、見る側に"こういうものだ"という強制はいらない。だから、感性の作品に対しては感性で見ることが必要なのだ。
学問は突き詰めると論だ。論文を書いて、"これはこうだ"と主張する。帰結が必要なのだ。これに対して、芸術や美術の帰結があるとすればそれは見る人の数だけ見方や感じ方があっていいのだと思う。
故に、芸術作品の中にはその作成者の手を離れて何年も残り、人に感銘を与え続けるものがある。では、学問は無意味なのかと言うとそうではなくて、学問は積み重なって人の生活に還元されていく。それはさながら芸術作品のそれだ。昇華されて、無名の芸術作品となるのだと思う。
芸術は長く、人生は短し
どの道、芸術にしても、芸術に通ずる学問であっても、私たちは時間が短いのである。自分がこの道と決めたら、悩んだり考え込んだりせずに突き進んでいくことをおすすめしたい。
思索と同時に手や口や耳を活用して動き続けることもいいだろう。がむしゃらになることも必要だ。人を突き動かすものはいつの時代だって情熱(Passion)なのだから。
斑鳩入鹿
参考文献 団藤重光, 筑摩書房,現代法学全集 法学入門 , (昭和58年),P1~4