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ケイタイがない!
ちょっと用事があって京都へ行く途中、阪急電車のなかで、ケイタイを忘れたのに気付いた。ホームに着いたとたんに列車が来たのが悪かった。慌てて乗ったのだ。回りを見ると九割がたの乗客たちがケイタイとにらめっこをしている。たまに居眠りをしたり、朝の通勤時間が終わったばかりの列車のなか、ぼんやりと車窓を眺めたりしている人がいるが、ごく少数だ。御多分に漏れずわたしも完全にケイタイ依存症になってしまっていて、まずニュースなどはすべてケイタイ経由、ゲームはもうほとんどやらないけれど(十何年前ポケモンGOが流行りだしたとき思わず手をだしてしまったが)、各種情報の検索だのなんだの、サッカーの試合結果から大谷翔平の動静までほとんどケイタイだ。かくて電車のなかで急にすることがなくなってしまった。うーん、困った。音楽も聴けない。いつからかこれもウォークマンもiPodもない。全部ケイタイ。リュックから本をだす。結局、今日の往復でこの本を二度読んでしまった。西脇順三郎の「旅人かへらず」。なぜ西脇順三郎なのか、というのはこみ入った話になるので今日は省略するけれど、とにかく通読二回。
するとケイタイがなくてもたいして困らないことがわかってきた。字を見飽きたら目をあげて窓を見る。風景が流れる。屋根や電信柱、自動車や人影、遠くの山や雲、空と地球。そういえばガラケーなどといっていた頃以前は、そんなにディスプレイとにらめっこをすることはなかった。窓の外を見るのも楽しいが、乗客もけっこう面白い。あまりじろじろ見るわけにはいかないが、斜めになって寝ているひとや、一心不乱にケイタイのキーを叩いているひとなどなど。人間というのは、とにかくなんかやっていないと気が済まないようだ。ケイタイでわたしたちは、遠く広い世界につながっているような気になっているけれど、実はケイタイのない世界はもっと豊かで、もっと満ち足りているのかもしれない、などと考えながら、手持無沙汰にまた窓を見る。運動場が過ぎていく。工場の屋根が流れ去る。幾万の部屋の窓々、交わされる何億の会話。
山裾をながれる竹林のおおきな振動。山崎あたりだったか。新幹線とすれ違う。秀吉と明智の軍勢を思う。あるいは水無瀬。後鳥羽院の歌。「山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ」、初句が思い出せない。ケイタイがあればこれもすぐに解決するのだが……。初句は「見渡せば」だった。あとで調べた。
幻影は去る
永劫の旅人は帰らず
タイトルは「かへらず」だが詩句の最後はなぜか「帰らず」となっている、と変なことに気づいたりもする。鉄オタではないけれど、電車というのは自動車と違って面白い。私的なような公的なような、ちょっと銭湯に似ているか、でも熱ではなく速度が高揚感をもたらす。
さて、すっかりケイタイがないことに馴れてしまった帰路。人混みのなかで突然ケイタイのベルが鳴った。だれだ。あたりを見回した。
竹の春ケイタイが鳴るいちどだけ