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sábado,9 de marzo にパーフェクトデイズを観て思ったこと

友人とパーフェクトデイズを観に行った。

トイレ掃除の人の話、役所広司、WIM WENDARS監督、くらいの前知識が、映画タイトルと頭の中でうまく合わなくて、タイトルが覚えられなかった。

映画館って、ふつう最初は色んな映画の予告編とか広告とかあって、その後本編が始まるよーって儀式として、スクリーン脇のカーテンが、さらに左右にググーンと広がるよね。通常は。そこで「あれっ?」て思ったんだけど。

映画を見終わって友人とまず言い合ったのは、あんな壁の薄そうなアパートで、早朝に、大きな足音たてて階段を下りたらアカンよねー!なんで玄関ドアをバタンッて閉めるの?!鍵も締めようよ!など、とってもヒヤヒヤした話。

朝の歯磨き直後に缶コーヒー飲んだら、歯を磨いた意味がない!とか。あそこに自転車停めるー?盗んでくださいって言ってるようなもんやん、なんて。

でもね、あの部屋は良い。ホントに。あんな部屋にしたい。で、ぐるりと自分の部屋を見渡したけど、どうやっても、あそこまで簡素にはできない。パソコン必要だしなぁ。化粧品も要るし。制服じゃないから、毎日違う服着るしなぁ。動画見るし。植物にひと部屋明け渡すなんて贅沢すぎる!

そう言えば、昔はすごく荷物が少なかった、私の部屋は。ちまちました小物好きの友人の影響で、細々したモノが増えていった。「服少ないなー」のひと言で、どんどん服が増えていった。ひとり暮らしのこの部屋は、友人たちの入れ知恵も詰まっている。

主人公の平山は質素な生活をしているけれど、いくつかコレクションがある。カセットテープに、古本の文庫本、フィルムカメラで撮った木漏れ日の写真。

思わず、映画を見終わった帰りに、古本屋さんに寄ってしまった。影響されやす過ぎる。

子どもの頃、家具調テレビのスピーカーにラジカセを押し当てて、家族に「シーッ」と言って、音楽番組の曲を一つひとつカセットテープに録音していったなぁ。

平山が木漏れ日や、天井に乱反射する日の光を眩しそうに、うれしそうに見つめるシーンがいくつかあった。

木漏れ日 と言う言葉は、日本人独特の感性が生んだ言葉らしい。『翻訳できない世界のことば』と言う本に載っていた。この本でそれを知った時は不思議に思った。木漏れ日 が翻訳できないのかぁ。。。これを自然に使える日本語話者でよかった。WIM WENDARS 監督も良さに気づいたのかな。

死ぬほど無口な平山は、姪のニコとだけは結構よく喋っていたな。「今度はこんど、今はいま」と言うセリフを聞いたとき、私は『ふたりのイーダ』を思い出した。

「あしたっていったら、あしたなんだ。きのうっていったらきのうなんだ。」

子どもの文学傑作選『ふたりのイーダ』松谷みよ子 1995年(講談社)P85より
子どもも大人も飽きさせない、じわじわと原爆の話だと気付かされる良い本だった

このフレーズだけ、なぜか強く印象に残っている。小学校の教科書にでも出てたのかな?どうだったかなぁ。折に触れて思い出すこの言葉。せっかくまた思い出したので、この機会に本を読んでみた。

イーダがいなくなったのは「キノウノ、キノウサ、ソノキノウカモシレナイ」と言っていたのは、誰もいない家で何年もイーダの帰りを待つ古い小さな子ども用のイス。頭を洗うのは「あしたよう、かんかんはあしたよう」と言っていたのは、洗髪されるのが嫌で嫌で仕方がない女の子、ゆう子=イーダちゃん。

キノウも、あしたも、今度も、今も、
そのままで良い、それ以上を求めない、あるいは拒否する言葉のように聞こえる。この映画での平山の存在感そのもののセリフだと、いま思った。

でも、じゃあ、なんで妹(ニコの母親)が来たとき、あんな後悔するような顔になったんだろう。

淡々と、何も変わらないように見える主人公の毎日にも、木漏れ日のような変数がふと降りかかる。

それが積もり積もった結果が、ラストシーンの演技だったのだろうか。つられて、なんだか訳の分からない感情がもよおされた。そして、この演技のためのこのスクリーンサイズだったのかな、と映画をみた日の夜、布団に入って思い出した。

左の棚のカセットテープと、ぴったり収まっている大きなラジカセ。

ところで、WIM WENDAS て名前、このフォントじゃ分かりづらいんだけど、「M」の両端の縦棒が斜めになってるフォントを使うと、「M」と「W」の距離感がいい雰囲気を醸し出していて、カッコよかった。エンドロールで流れてくるのを見て思いました!

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