スピノザとティール、そして、ありえたかもしれない近代(3)
「変状する力」とは、「エボリューショナリー・パーパス」と、それが生成される過程に近いと思いました。「エボリューショナリー・パーパス」とは、まさに企業や組織の「いのち」です。時に、「ソース」と呼ばれるような、特殊な使命感を持った創始者がいなくなったり、業種転換したりなどして、企業が「エボリューショナリー・パーパス」を喪失することがあります。そうなれば、企業は、「自らの存続が最大の目的」という延命が目的のゾンビ企業となり果てます。企業がなくなる時に、「エボリューショナリー・パーパス」、それ自体が消滅することもあれば、「ソース」を引き継いだ誰かの元で、新しい組織が誕生し、新たな関係性の元で、「エボリューショナリー・パーパス」がまさに進化して、受け継がれることもあります。
では、その「エボリューショナリー・パーパス」はどのようにして生成されるのでしょう?起こりうるパターンは千差万別ですが、よくあるパターンのひとつを紹介します。例えば、経営者か、もしくは、強い影響力を持つ人物が「ソース」とつながると、これはとても受動的な行為ですが、そうするとその人物はまず、降りてきたその言葉が自分のエゴから発せられたものでないか、自問自答して突き詰めなければなりません(稲盛和夫さんの「私心なしや?」にとても近いです)。
ラルー氏は、「エボリューショナリー・パーパス」が、組織に浸透していく過程を「感覚と感応のプロセス」と呼んでいます。メンバーにとっては、「ソース」に導かれた人物の言葉にいかに共感できるかということがポイントになってきますが、単なる共感というよりは、もっと奥深いところでの「つながり」を意味しています。つまり、ここで意味しているのは、「ソース」に対して、感情レベルで受け入れることができ、かつ、響き合っているという感覚を持てるかということです。先ほど、共感と書きましたが、共感より、「共鳴」の方が近い感覚でしょう。ラルー氏は「resonate(鳴り響く、共振する)」という言葉を使っています。
スピノザの言う、「異なった人間が同一の対象から異なった仕方で刺激されることがある。また、同一の人間が同一の対象から、異なった時に、異なった仕方で刺激されることができる」「刺激による変化のことを『変状』と呼ぶ。つまり、あるものが、何らかの刺激を受け、一定の形態や性質を帯びることである」というのは、まさに、いま説明した、「エボリューショナリー・パーパス」が組織に浸透していく様と同じことを言っています。個人が刺激を受けることから「変状」する様は、「感覚と感応のプロセス」と同じことを言っています。
スピノザは、「『変状する力』とは、『コナトゥス』を言い換えたものである」と言いました。前回の(2)を参照いただきたいのですが、「コナトゥス」とは「力」、それも組織に偏在する「力」と説明しました。つまり、「ホールネス」が実践され、メンバー皆が「力」を有していないと、「変状」というプロセスも起こりえないのです。「エボリューショナリー・パーパス」が機能する前提としても、「ホールネス」の存在は欠かせないものなのです。