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社会合理の壁を超えて ~「個人の喜び」と「社会においての喜び」と~

子どものときには未分離であったものが、大人になるにつれて分かれていくものがある。自分がやっていて本当に楽しいと思えることや、やりがいがあること、つまり、「個人の喜び」といったものと、社会で認められることやお金を得ることによって得られる「社会においての喜び」とは、成長とともに分離していく。例えば、やりがいを感じられない仕事でも、それによってお金が稼げて、生活が安定するなら、そこから得られる喜びによっても充足感は得られる。それが通常の社会生活というものだ。いわば、自己の精神を充たすか、自己の生活を充たすかといったようなもので、誰もが一度は経験したことがあると思う。そのようなジレンマ(二項対立)によって、社会は成り立っている。この構造を端的に示した表現に、「本当にやりたいことはあるが、それをやると食べていけなくなる」という例えがある。これが現実の社会が持つ合理性だ。この合理性の壁に、どう向き合い、どう乗り越えていくか、もしくは、両者をどう統合していくかというのが、その人にとっての人生そのものになってくる。
 
「本当にやりたいことはあるが、それをやると食べていけなくなる」という命題には、例えば、学校を卒業して就職しようとするときや、定年が間近に迫り、給料は半分で我慢して再雇用を選ぶかというセカンドキャリアの選択のときなどにぶち当たる。それ以外に、人生の節目を問わず、例えば、十数年企業で働いてきて、経済的志向が優先される組織やそれに迎合する自分自身に嫌気がさしたときにも、同じことを思う。つまり、生きていくこと自体が、ライフかライスかという二項対立に翻弄され続けているのかもしれない。
 
私が最初、この命題にぶち当たったのは学生のときだった。私は音楽にのめり込んでいて、プロのミュージシャンにならないまでも、音楽業界にいて、音楽には携わり続けたいと思っていた。身の回りのミュージシャン、何人かに相談してみたが、みんながみんな大反対した。まず自分でCDを出したりして、それで食べていける人は本当の一握りであること。レコード会社の働き口くらいは口をきいてやってもよいという人もいたが、だからといっても、当たるか当たらないかの世界。生活は安定しないなど、家族を持って生活できるだけの収入を得ることは難しいというのが反対の理由だった。
 
一般企業も含め、就職するかしないかを決める前に、私は、自分の音楽の師匠をよく観察してみた。彼は週の半分は大阪か神戸か京都のライブハウスのステージに立っており、イベントがある時などは、1年に数回、東京に出張していた。しかし、本業は中古ギター屋の主人だった。おそらく家賃が3万円くらいの文化住宅の、表の部屋を店にして、奥の部屋を住まいにしていた。店には古物商の看板が上がっており、時折、市で質流れなどの商品を見つけてきてはメンテナンスして、店頭に並べて販売していた。奥さんも子供もいない、天涯孤独といった感じだった。しかし、私は、そういう生き方に、心の奥では憧れていた。
 
彼の音は彼の生き方がそのまま反映されていた。そのため、商業的なミュージシャンと比べたら、けた違いの味わいがあった。この話題は、音楽仲間の友人ともよく話していた。そして、2人で出した結論は、本当に好きなことだけにこだわって、聴衆に迎合しない姿勢を貫いたら、食べていけない。食べていけている人たちは、大衆受けがよく、ポップな要素を加えた音楽を作っている。彼らの音楽は妥協の産物であるというものだった。
 
しかし、当時流行っていたサザンオールスターズは、本当に好きなことだけを追求しているように思えた。またそれができてしまっていると感じていた。ビッグになったから好きなことができるのか、それとも、好きなことを追求したがゆえにビッグになれたのかというのは新たな命題だった。しかし、その答えは、ずっと後になって、全く別の形で知ることになった。ローリングストーンズのキース・リチャーズが雑誌のインタビューでまさにそのことについて話していたのだ。キースは、「俺たちは若い時にたまたまヒット曲が出てビッグになることができた。だから好きな音楽を追求できたんだ」とまさに核心を突いていた。ただ、90年代にヒットしたブエナビスタ・ソシアルクラブのコンパイ・セグンドのように、再発見された後、90歳を超えてから初めてメジャーデビューを果たした人もいる。
 
結局、就職するかしないか、結論がでないまま、大学は留年することになってしまった。必須科目を落とし、卒業するにはその1単位だけが足りなかった。担当教授は「ごめんごめん、本当にその1科目だけだったのか。悪いことしたねぇ」と言っていたが、こちらはそんな軽く受け止められるものではない。とはいえ、そのおかげで、モラトリアムの期間は延びた。
 
今度はもう一人の師匠を観察してみた。彼は関西出身だが拠点は東京に移しており、NHKの番組で講師を務めるなど、ギター屋の師匠より、知名度は格段に上だった。しかし、この師匠のクラスまで来て、ようやく、演奏と音楽雑誌などの執筆で、かろうじて食べていけるかといった具合だった。彼は全国どこでも一人でふらっと現れた。それができるのは、全国各地にサポートミュージシャンがいるからだ。ライブのステージに上がっているミュージシャンといっても、本業の人は一握りだ。そういうセミプロのミュージシャンは、実は、郵便局員や市バスの運転手など公務員がものすごく多い。5時か6時には仕事が確実に終わるからだ。昼間は公務に従事し、夜はミュージシャンとして活動するというのは、実に合理的だ。私はこの手があると思った。たまたまデパートの時計売り場の販売員の採用広告を見つけ、新卒だったが中途の枠で、デパートにテナントを出している商社の社員となった。
 
それからというもの、朝、出勤時には、デパートの、本来はコートなどを預ける「私物預かり」にギターケースを預け、ライフとライスをきっちり分けた社会人生活をスタートさせた。
 
プロセス志向心理学のアーノルド・ミンデルの著書に『シャーマンズボディ』という本がある。そして、本の最後にある「解説」の中で、藤見幸雄さんが、「世界は個人のチャンネルであると同時に、個人は世界のチャンネルだ」と述べている箇所がある。個人は投影の主体として、世界に対し問いを投げかけるが、それも世界にとってはひとつの側面にすぎない。自己は常に相対的な存在として、世界との折り合いをつけているということだ。
 
そうやって始めたライフを自己保存したような、いや、正確には、ライス=マネーを打算的に捉えた、販売員とミュージシャンとのパラレルキャリアだったが、30歳前後で破綻する。自分の奏でる音が薄っぺらすぎてどうにもならなくなってしまったのだ。そして、人生が積みあがるまで数十年間待つことを決意し、音楽活動からは、すっぱり足を洗った(いま、便宜上、2行で書いてしまったが、これを説明しようと思ったら、この何十倍もの紙面を要する)。
 
初めて転職したのは、34歳のときだった。そこから、今の会社で正社員になるまで、約10年のうちに、3回リストラに遭い、30代中盤から40代前半という働き盛りのときに、そして、個人のキャリア形成にもっとも大事な時期に、約3年間の休職期間、つまり仕事をしたくてもできない期間を経験した。結婚と同時に、もっと良い生活を狙って、当時の言葉で言うと、「クオリティ・オブ・ライフ」なのだろうが、「マネー」に目が行ってしまって、外資系の営業ポジションを狙った転職を繰り返した。1回目、2回目の失業時はそれぞれ半年くらいで次の仕事が決まったが、3回目は厳しかった。まだ人手不足が顕在化する前だったので、再就職までに約2年を費やした。その期間、面接で落ちた会社は100社を超えた。全部が1次で落ちたわけでなないので、面接に限れば、150回近くは受けていただろう。最後のほうは、エージェントから面接に進めると連絡を貰うたびに震えあがっていた。また落とされると思うと、トラウマとかいう次元ではなく、面接が怖くて怖くてたまらなかった。自己肯定感は削られ過ぎて、そこに意識を向けるのもつらかった。失業保険は約半年で切れるので、その後は短期の派遣でつないでいた。せっかくの体系的な学びができる期間だとビジネススクールにも行くことにした。そこに、ひどい場合は週に3つも4つも面接が入ってきた。一度断ればそのエージェントからは2度と紹介がないと思い、あまり気が進まないところも受けるようにしていた。つまり、昼間は派遣で8時間働き、ビジネススクールの予習やレポートにも時間を割き、それに企業研究など面接対策をやっていたら、睡眠時間は2時間か、よく取れても3時間だった。そういう生活を1年半かそれくらいやっていた。
 
なぜ、私が音楽活動を中断したか。それは人生経験を積むためだった。つらい目に遭って、とことん、どん底まで落ちないと、自分の出したい音は出せないと思っていた。先程、ミンデルのプロセスワークのことを書いたが、その私の望みを知ってか知らずか、世界は試練を与え続けた。就職活動1年目くらいのときに、最終面接に受かり、社長と握手までした企業があった。家内にも長い間苦労をかけたことを詫び、一緒にいてくれたことに感謝し、二人で簡単な祝杯を上げた。しかし、その握手から1週間たっても、その企業からは何連絡もなかった。不審に思った私はそこの人事に電話してみた。そしてその時に返ってきた言葉が驚愕するものだった。「あー、あれは手違いでして、ウチの社長も、まあ、あーいう性格だから。ごめんさない。他の人で決まってしまいました」と。さすがに家内にも隠し切れず、それを伝えた。あのときはつらかった。私は、「まだ足りないのか」と世界を恨んだ。
 
そうは言いつつも派遣の方は絶好調で、営業系のBPOだったが、他の正社員のメンバーの3倍くらいの実績を上げて、成績はダントツにトップだった。すると今の会社から「うちで正社員で働きませんか?」というオファーが来て、嫌で嫌でしょうがなかった面接は、ほぼ会社説明だけで、その場で契約社員となることができた。その後、3年ほどして正社員となり、一度異動も経験し、現在はコンサルタントとして働いている。
 
これで万事「めでたしめでたし」かといったらそうではない。結局、また最初のライスかライフかという次元に戻ってしまった。次のライフは「ティール組織関連」となった。2017年に自然経営研究会という、当時はホラクラシーと呼ばれていたが、自律分散的経営を学ぶ会に入ったのをきっかけに、2018年から2020年にかけては、フレデリック・ラルーの動画シリーズの翻訳プロジェクトに携わった。その後も「チームeumo」、「組織をアップデートする対話会」をはじめ、多くのコミュニティ、プロジェクト、研究会に携わるようになった。
 
現在の1週間のスケジュールを見てみよう。最近は会社も残業にうるさくなったので、平均19時前後には仕事を終えている(コロナ前までは平日は終電、土日のどちらかは出勤していた)。その結果、その後は自分のために時間を使えるようになった。月曜はフレデリック・ラルーの動画シリーズを用いた勉強会。これは自分が主催している。そのあとの時間は毎回出るわけでないが、自律分散組織の研修会に出席することもある。火曜日は、独立研究家が主催する研究会。主に、コミュニティを通した社会参加について研究している。水曜日は隔週で人事制度の研究会。「労働の対価でない賃金」の研究をしている。木曜日は友人の読書会のサポート。一緒に読書会を運営をしている。金曜はイベントが入りやすいので基本的には空けている。
 
コミュニティという場は人の想いと想いが交差する場だ。いや、逆に、人の想いの交わりが幾重にも重なって濃くなった場所がコミュニティかもしれない。ということは、その交わりは常に移動を繰り返し、いたるところに、多くの交わり、小さな交わりを形成している。コミュニティは、あたかも生命体であるかのようだ。そして、その形態は社会という大きな枠組みを舞台に形成されるが、会社、地域、家庭といったそれに内包された枠組みであってもフラクタルに存在する。
 
現在は、コミュニティ活動がライフ、そして会社での勤務がライス、つまり、生活維持のためにお金を稼ぐ手段と化している(ように感じている)。しかし、実は、分離したなりにも双方間に循環はある。ライフで培った人脈がそのままライスの方でも役立っているのだ。実際に、現在の私は、研修、コンサルティング、講演の依頼が可能な、きちんとは数えていないが、200人以上の専門家リソースと共にある。そして、社内にも、困った時は私に頼めばいいというコンセンサスが醸成できている。ライフとライスとのエコシステムは回っているようだ。


最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。