もう親には頼れない
アラフィフの私にとって、子ども時代は米ソ冷戦の真っ只中でした。核戦争が起こらないか、ソ連が日本にミサイルを撃ち込んでくるのではないか、とずっと心配しながらその時代を過ごしていました。
私は、ある時、素朴な疑問を母にぶつけました。
「日本が戦争に巻き込まれたらどうなるの?」
その時は「アメリカが助けてくれるから心配ない」ということでした。
「だったら、アメリカが攻められた時は、日本はどうするの?」
母は、「日本は何もしなくてもいい」ということを言いました。その時、日米安保条約のことを教えてもらいました。子どもながらにも、そこに何か変なもの、非対称性を感じたことを覚えています。
2019年、第一次政権の時、トランプ氏は言いました。
「もし日本が攻撃されたら、アメリカはあらゆる犠牲を払って戦う。しかし、アメリカが攻撃されても、日本は助ける必要はない。」
この発言は正しい発言です。それが子どもでも知っていることであっても……。
しかし、いま、なぜそうなのか?と、その非対称性を考える時期が来たのかもしれません。
私は、小さいころ、祖父、祖母、父、母、私、妹という6人家族で育ちました。考えてみれば、妹が生まれて祖父が亡くなるまでの期間は、15年ほどです。ちょうど物心がついたころから社会人になるまでの期間でした。社会人になってから今に至る時間の方がはるかに長いのに、私にとって6人家族の時間は永遠です。
妹も結婚し、数年前には祖母も他界しました。いま、私は実家からずっと離れた土地で家内と二人で暮らしています。子どもはいません。考えてみれば、日々の暮らしだけでなく、季節ごとの行事を共に過ごすことによって、「家」が保持されてきた気がします。そのような「家」という感覚も、いつしかなくなってしまいました。
そういえば、結婚して間もないころ、こんなことがありました。当時、実家から車で2時間くらいのところにハイツを借りて住んでいました。ある時、たまたまスーパーで買った鱈の中から虫が出てきたことがありました。私は、そのままスーパーに持って行き、謝罪を受けて返金してもらいました。それで十分だと思っていました。しかし、その夜、たまたま母親から電話があり、ついそのことを話してしまったのです。すると、翌日、父親がそのスーパーに怒鳴り込んだらしく、スーパーからさらに謝罪の電話があり、ついには支配人が菓子折りを持って自宅に来るという事態に発展しました。父親のやったことは、やや迷惑に感じましたが、無意識のうちに「力強さ」を感じたのは事実です。心のどこかに、親は「頼りになる」「助けてくれる」という存在を感じずにはいられませんでした。
いま、頼れる親はもういません。朝、ふと目が覚めて考えてみると、なくなっていくものばかりだな、としんみりする時があります。
ということで、アメリカの話に戻ります。トランプ氏は、長年、世界の警察を引き受けてきたことで、世界中の国から搾取され続けてきたと言っています。そして、それによってアメリカは弱体化したと言います。
現在、アメリカの貧富の差は極限までにきていると言われます。上位半分の人がアメリカ中の富の98%を持っているそうです。ということは、残り50%の国民で、わずか2%の富を奪い合っているということです。アメリカ社会はこういった現実に直面しているのです。とてもこれが先進国の姿とは思えません。かつての「強い」アメリカの姿ではありません。トランプ氏は、アメリカは「弱い国」だと言っています。これも正しい発言に思えます。
となると、やはり矢印は自分に向ける必要があります。「私たちはまだ、弱り切った親に助けてもらうことを期待しているのだろうか?」という問いが芽生えてきます。