終戦後の柳町、その2
1945年8月15日に降伏した日本政府は一週間も経たない内に全国に進駐してくるアメリカ兵相手の慰安所を作ることを決め、その為の補正予算を計上しています。
一般女性の純潔を守るため、娼妓達をその防波堤にするという名目でした。
アメリカはキリスト教文化圏であり、日本を民主化するという大義名分があったので、アメリカ側から慰安所の要求は公式には行われていません。
ただし、横浜遊郭の例はあります。
(開国条件の一つとしてハリスが、水夫達の慰安施設を要求。横浜に遊郭ができたと言われている)
この政府の態度には失望した人も多かったようです。
鬼畜米英と叫んでいたのが、敗戦すると一変して、自国の女性を捧げるようなことをしたのですから。この政策は批判もされました。
ところが実際には、この特殊慰安施設協会という団体(約5万人の女性がいた)が廃止されると強姦、婦女暴行事件の一日平均は40件から330件に膨れ上がったそうですから、必要悪だったのでしょう。
さて占領後のアメリカ兵は、日本人に対して紳士的だったと言われています。
しかし、当然ですが全員がそうだったわけではありません。
アメリカ兵は上陸してきた各地で強姦事件を起こしています。
そのような事件を書いた新聞や雑誌は検閲によって消されていましたので、記録にはあまり残っていないようです。
一方で純粋に日本人女性に入れ込んでしまったアメリカ兵もいたようです。
娼妓の中にも結婚して一緒にアメリカに渡った女性も稀にですがいました。
戦争と男と女は、良くも悪くも、様々なドラマを生み出していったのです。
進駐軍が増えると、パンパンと呼ばれた私娼も増えました。
彼女らは日本人には目もくれなかったようで。
「パンパンに札束を見せて遊んでくれないかと頼んでも、みんな断られてしまう。日本の男も下落したもんだ」と嘆いた遊び人もいたそうです。