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躁うつ病時代を生き抜く創作術15-「学ぶ」という姿勢を手放そう-
「創作」と「学ぶ」ことは、一見、密接に関係しているようで、実は微妙な距離感がある、そんな関係性だと僕は感じています。
創作とは、自分の内なる世界を表現することです。自分の内面を探求し、自分だけの言葉で世界を描き出す行為です。
そこには、他者からの評価や、外部の基準に縛られない自由があります。
しかし、「学ぶ」という言葉は、どこか強制的な響きを持っています。誰かに教わらなければならない、正解を覚えなければならない、できるようにならなければならない。そんな義務感や焦りが、「学ぶ」という言葉には付きまとっているように感じるのです。
特に僕はうつ状態がひどかった2021年から2022年にかけて、「学ばなければ」という自信の心に大変に苦しめられていました。
「うつ状態で、なにもできないのだから、せめて学ばなければ・・・!」
という焦燥感が、胸の中で湧き立ち、僕の身と心を焼きました。
でも、学ぼうとすれば、学ぼうとするほど、僕の脳みそはインプットをストップしました。
ただただ、焦燥感に身を焦がしていたのです。
本当に苦しかったです。
創作にとって、この「学ぶ」という姿勢は、時に大きな障壁となります。「学ばなければ」というプレッシャーが、創作への純粋な興味を奪ってしまう。「できない自分」への自己否定が、表現への意欲を削いでしまう。創作が「学び」の重圧に押しつぶされてしまうのです。
特に、うつ状態にある人にとって、この「学ぶ」ことへの強迫観念は、大きな負担になります。何もできない、何も学べない自分への絶望感。そこから抜け出せないと感じる無力感。「学び」への囚われが、うつ状態を深刻化させてしまうのです。
だからこそ、創作において「学ぶ」姿勢を手放すことが大切なのだと、私は考えるようになりました。「無才」であることを受け入れることが、その第一歩となります。
前回の記事でも書いたように、私たちは誰しも「無才」です。
生まれながらにして「才能」を持っている人などいません。すべては、ゼロから始まるのです。
この「無才」であることは、決して諦めとか、冷笑とか、そういうことではありません。
むしろ、「無才」であるからこそ、自由に表現できるのです。「才能がない」と嘆くのではなく、「だからこそ、自分らしく創作できる」と考える。そこに、創作の喜びが生まれます。
「無才」を受け入れるということは、「学ぶ」姿勢から解放されるということでもあるのです。
「学ばなければ」という呪縛から自由になる。
「できない」ことを恐れずに、ただ表現することを楽しむ。そこにこそ、創作の本質があるのだと思うのです。
「学ぶ」ことへの囚われを手放し、「無才」の自分を抱きしめる。そして「無才」の自由を謳歌する。「学び」の重圧から解き放たれ、創作の喜びに飛び込むのです。きっと、自分だけの表現の世界が、そこに広がっています。
「学ぶ」ことへの強迫観念が、創作を阻む
創作に向き合う時、僕たちは「学ばなければ」というプレッシャーに囚われがちです。描画の技術、文章の書き方、音楽の理論・・・。
創作には、多くの「学ぶべきこと」が立ちはだかっているように感じられるのです。
「学ばなければ」という強迫観念は、創作への恐怖心を生み出します。
「まだ何も学んでいない自分には、創作する資格がない」「学ばないで表現することは、愚かなことだ」そんな風に考えてしまう。
そして、その恐怖心が、創作への一歩を躊躇わせるのです。
この恐怖心が芽生えてしまうと、大変に厄介です。本当に厄介です。
人の作品が目につき、自分が恐怖心で創作できなくなってしまう。悪循環が生まれてしまいます。
「学ぶ」ことへに囚われるのは、「できない自分」への自己否定にもつながります。新しい技術が身につかない、思うような表現ができない。そんな時、私たちは「自分にはできない」と自分を責めてしまいがちです。
そして、その自己否定が、創作への意欲を奪っていくのです。
自己否定はうつ状態につながり、うつ状態は人生自体の反省へとつながります。これはメンタル的にも非常に危険です。
思い返してみると、僕が創作を始めたのは、小学校の時に小説や漫画を自分で作り始めた頃なのですが、その頃は「学ぼう」なんて考えはなかったはずなのです。
ただ自由に、自分と、自分が好きな漫画と、自分が作り出した漫画のキャラクターがどこかで「つながっている」だけで満足でした。
ですが、大人になって創作を始めると、いつの間にか「学び」が前提になってしまう。人に評価されることが前提になってしまう。お金にすることが前提となってしまう。
いつの間にか窮屈な牢の中に閉じ込められてしまうのです。
特に、うつ状態にある時、この「学ぶ」ことへの強迫観念は、大きな負担となります。本来、創作とは自分自身を表現する楽しみのはず。
しかし、「学ばなければ」というプレッシャーが、その楽しみを奪ってしまう。うつ状態の中で、「学べない自分」への絶望感が、創作への意欲をさらに削いでいくのです。
僕自身も長い間、この「学ぶ」ことへの呪縛に悩まされてきました。絵を描く時、「もっと絵の勉強をしなければ」という思いが頭をよぎる。文章を書く時、「文章教室に通わなければ」という焦りが心を締め付ける。そんな「学び」へのプレッシャーに、創作の喜びを奪われてきたのです。
僕のパステル画を始めた当初は、「デッサンからやらなければ」とか「模写を学ばねければ」とか、いつの間にか「人によく見られたい」という考えに縛られて、「学び」を追い求めていました。
しかし、ある時気づいたのです。創作に「学び」は必要ない、と。
必要なのは、ただ自分の内なる世界を表現する勇気、目の前の自然を描写する、世界に対する誠実さ、だけだと。
「学ばなければ」という呪縛から解放された時、創作の本当の自由が始まるのだと思うのです。技術や知識への囚われから離れ、ただ自分らしく表現する。そこにこそ、創作の喜びがあるのではないでしょうか。
「学び」への強迫観念に支配された創作は、決して自由ではありません。むしろ、その呪縛から解き放たれた時こそ、僕たちは自由に創作できるのです。
だから、「学ばなければ」という呪文を、今すぐ手放してください。代わりに、「ただただ、ただひたすら、自分を表現しよう」という呪文を、唱えてみてください。
きっと、創作はもっと自由に、もっと楽しくなるはずです。「学び」の重荷から解放された時、あなただけの表現の世界が、広がっているのです。
「学ぶ」姿勢を手放すことで「自由」が得られる
「学ばなければ」という呪縛から自由になると、創作への純粋な興味が湧き上がってきます。
技術や知識を身につけることへの焦りがなくなり、「ただ表現すること」自体への関心が高まる。
「どんな色を使ったら面白いだろう」「この言葉をこんな風に並べたらどうなるだろう」そんな素朴な問いかけが、創作の原動力になっていくのです。
「できない」ことを恐れずに、自由に表現する喜びも味わえるようになります。
僕も「学ぶ」姿勢に囚われていた時は、「できない」ことへの恐れが常につきまとっていました。
しかし、その呪縛から解放された時、「できない」ことは恐れるべきことではなく、むしろ挑戦する喜びへと変わるのです。未知の表現に踏み込む楽しさ、思いがけない発見の喜び。
そんな体験が、創作をより豊かにしてくれます。
そして何より、「無才」であることを楽しみながら、のびのびと創作に向き合えるようになります。
「才能がない」と嘆く必要はありません。
むしろ、「無才」だからこそ、自由に表現できるのだと気づくのです。「上手い」「下手」といった評価から解き放たれ、ただ自分の表現を楽しむ。そこには、創作本来の喜びがあるのではないでしょうか。
私自身、「学ぶ」姿勢を手放した時、創作が楽しくなりました。絵を描く時、「絵の勉強をしなくては」という焦りがなくなり、ただ色を重ねる喜びを感じられるようになった。文章を書く時も「文章教室に通わなければ」「本から学ばなければ」という呪縛から自由になり、言葉を紡ぎ、純粋に伝えたいことを綴る楽しさを味わえるようになりました。
「無才」の自分を受け入れ、思い切り表現する。
その時、創作はまるで遊びのように、自由で楽しいものになるのです。
もちろん、時には表現がうまくいかないこともあるでしょう。思うような作品ができないこともあるでしょう。でも、そんな時こそ、「学ぶ」姿勢に囚われずに、「無才」を肯定することが大切なのです。「できなかったから、学ばなければ」と考えるのではなく、「できなかったけど、楽しかった」と思えること。
それが、創作を続ける原動力になるのだと思うのです。
「学ぶ」ことへの呪縛から解放されること。それは、創作の自由と喜びを取り戻すことです。「無才」の自分を抱きしめ、のびのびと表現することの幸せを、心ゆくまで味わってみてください。
きっと、創作はもっと身近で、日常の中の「愛すべき行為」になるはずです。
創作の喜びは「学び」と「無才」の先にある
「学ぶ」ことへの呪縛から解放され、「無才」であることを受け入れた先に、真の創作の喜びが待っています。
繰り返し述べているように「学び」の呪縛からは、常に「もっと上手くならなければ」という焦りが生まれます。完璧を目指し、できないことを恐れる。
一方、「才能」の呪縛からは「才能がない自分」への絶望感が生まれます。
生まれながらの才能がないことを嘆き、自分を責める。しかし、その両方から自由になった時、創作の本質が見えてくるのです。
創作とは、自分だけの表現を生み出す喜び。誰かに教わるのではなく、誰かと比べるのでもなく、ただ自分らしさを追求する。その過程で見出す、かけがえのない充実感。
それこそが、創作の醍醐味だと思うのです。
そう「学ばなければ」と焦る必要はありません。「才能がない」と嘆く必要もありません。
大切なのは、自分の内なる声に耳を澄まし、自分らしい表現を探求することです。それは、どこまでも自由な行為です。
技術や知識は、その過程で自然と身についていきます。むしろ、「学ぼう」とすることで、自分らしさを見失ってしまうこともあるのです。
だからこそ、「無才」であることは、恥ではありません。
「才能」という枠に囚われず、自由に表現できる喜び。「学ばなければ」という呪縛から解き放たれ、ゼロから創作を思い切り謳歌できる幸福。そんな「無才特権」を、存分に味わってみてください。初心者であることは、恥ではなく、幸福なことなのです。
僕自身、「無才」を受け入れた時から、創作がとてつもなく楽しくなりました。「上手く描けない」と悩んでいた絵が、「ああ、俺らしく描けている」と感じられるようになった。「文才がない」と諦めていた文章が、「自分の言葉で紡げている」と実感できるようになった。
それは、自分らしい表現を追求する中で見出した、かけがえのない喜びです。「学び」や「才能」といった外的な基準では測れない、心の満足感なのだと思います。
どうか「無才」を恐れないでください。「学ばない」ことを、罪悪感を持たずに謳歌してください。あなたにしかない表現を、あなたにしかない方法で探求する。
その過程そのものが、創作の喜びなのです。
「学び」と「才能」という呪縛から解き放たれた先に、真の創作の自由が広がっています。
「学ぶ」姿勢を手放すことは、「生きる」姿勢を得ること
「学び」への強迫観念から解放され、創作をとことん楽しむ。
「無才」を引き受け、自分らしい表現を追求する。そんな在り方は、創作だけでなく、人生全般に通じる姿勢です。
自分らしく生きるとは、「学ぶ」ことへの囚われから自由になることです。
「無才」の自分を認め、自分の人生を「遊び」として謳歌すること。創作はその第一歩であり、生き方そのものを映し出す鏡なのかもしれません。
「学ぶ」ことを手放し、「無才」を引き受ける。その選択は、一見、後ろ向きに感じるかもしれません。
気をつけなければならないのは、「学ぶ」ことを"捨てる"のではなく、「学ぶ」ことを"手放してみる"ということです。
実はそれこそが、自分らしい創作と、自分らしい人生を切り拓く、勇気ある一歩なのです。
「才能がない」と嘆くのではなく、「無才だからこそ、自由に生きられる」と考える。「学ばなければ」と焦るのではなく、「学ばないからこそ、人生を謳歌できる」と信じる。
そんな発想の転換が、新しい扉を開きます。
躁うつの波の中で、創作に向き合うこと。それは、決して楽な道のりではないかもしれません。僕も躁うつの波に翻弄されながら、遭難しながら、創作を通してどうにか今日まで生き延びてきました。
「躁うつの遭難」の日々の中で見出す「無才」の喜びこそが、新しい「躁うつ時代」を生き抜く糧になるのではないでしょうか。
「学び」の呪縛から解き放たれ、「才能」の重圧から自由になる。
そんな創作の在り方が、きっと人生の在り方にも通じるのです。
拙著『躁うつ病患者の遭難日誌』には、私が「学ぶ」姿勢から解放され、「無才の創作」の喜びを発見するまでの道のりを綴っています。
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この本は、単なる僕の体験談ではなく、同じように「学び」の呪縛に悩む全ての人に向けた、創作と人生を解き放つためのメッセージです。
うつの底から這い上がる中で、僕は「学ばなければ」という強迫観念が、いかに創作を阻むかを痛感しました。
「できない自分」への自己否定が、表現への意欲を奪っていく。その悪循環に、長い間苦しめられてきました。
しかし、「無才」を受け入れることで、全てが変わったのです。「才能がない」と嘆くのをやめ、ただ自分らしく表現する喜びを見出せたのです。「学ぶ」姿勢を手放し、創作を「遊び」として楽しむ。その中で、かけがえのない充実感を味わえるようになりました。
この本には、躁うつの波の中で、「無才の創作」にたどり着くまでの試行錯誤。「学ばない」ことを選び取り、自由に生きるために奮闘する日々。
僕と同じように「学び」の重圧に悩まされている人は多いはずです。「学ぶ」ことから自由になる勇気。「無才」を引き受ける覚悟。そこから始まる、新しい創作と人生のあり方。
この本が、そのための一歩を踏み出すきっかけになれば、これほど嬉しいことはありません。