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【前編】再生可能エネルギーに託された、福島の人たちの想い| 再生可能エネルギー福島視察レポート

いま、わたしたちの生活に電気は欠かせません。
寒い季節を温めてくれる暖房器具、人のコミュニケーション手段の大きな役割を果たすスマホ、日本の経済を支えるネット環境。生活と経済のインフラを支え、わたしたちの生活を豊かにしてくれる電気がもしなくなったら…。多くの人は仕事を奪われ、苦しい生活を余儀なくされるでしょう。

2011年3月に発生した東日本大震災による東京電力福島第一原子力発電所の事故は、エネルギー供給の在り方を、厳しく問われるものとなりました。
首都圏の膨大な電力を賄うために作られた福島県の原子力発電所の事故の傷跡は、11年経っても癒えることはありません。

そんな福島県の復興のために、再生可能エネルギー事業を立ち上げた人々がいました。
そのひとつである飯舘電力が開催している、再生可能エネルギー視察ツアーに参加したレポートをここに記します。

飯舘電力による再生可能エネルギー視察ツアー

寒さが厳しくなった2022年12月、福島県の飯舘電力が開催する1泊2日の再生可能エネルギー視察ツアーに参加しました。

再生可能エネルギーとは、風力発電、太陽光発電、地熱発電、水力発電、バイオマス発電の5つを指し、自然の力を借りて電力を生み出すエネルギーのことです。自然の恩恵にあずかるため、バイオマスを除き初期投資やメンテナンス以外にはコストがほとんどかからず、地球汚染も少ない発電です。

福島県では2011年の原発事故以降、原発に依存せずに自分たちでエネルギーを生み出そうと、再生可能エネルギー事業を起こしている団体が複数あります。そのひとつが、今回の視察ツアーを開催した飯舘電力です。

飯舘電力とは「ふるさと飯舘村産業創造」を掲げ、自然豊かな飯舘村の資源を利用した再生可能エネルギー事業をおこなっている会社です。
原発事故によって全村避難を余儀なくされた飯舘村の復興をめざし、村民の有志が集まって設立されました。
その創設者のひとりである飯舘電力の千葉さんは、凄まじい情熱を持っている方です。この視察ツアーも、原発事故を風化させずに後世へ繋いで行くために企画されたものです。
福島県の主な再生可能エネルギー施設をめぐりながら、原発事故がおよぼした影響や再生可能エネルギーについて学んでいきます。
参加者は飯舘電力の千葉さんと米澤さんをはじめ、今後の視察ツアーのブラッシュアップのために、再生可能エネルギーに造詣が深い福島大学の佐藤理夫教授の同行に加え、観光やツアーの観点で福島交通株式会社の支倉文江さんにもご参加いただきました。

佐藤教授は福島大学の教授でありながら、福島県の環境やエネルギーに関するアドバイザーも務め、再生可能エネルギーの普及活動に務めている方です。福島県で立ち上がる再生可能エネルギー事業の多くに関わっているんだとか。ツアーをより学び深いものにするため、学術的な視点からご意見を伺っていきます。

支倉さんは福島ホープツーリズムという世界で類をみない複合災害を経験した福島の「ありのままの姿」を「復興に挑戦する人々」を通じて学んでいくツアー企画の立役者です。すでに福島県内の復興ツアーに精通している支倉さんの視点から、視察ツアーのプログラムやバスの動線など、ツアーの完成度を高める視点をご提供いただきます。

11年経った今でも故郷に帰ることができない帰還困難区域

福島駅で参加者が集合したのち、マイクロバスを走らせて向かったのは、帰還困難区域に指定されている飯舘村の浪江町です。
帰還困難地域とは、年間被ばく量50ミリシーベルトを超えるため、原発事故から11年経った今も帰ることができない場所として指定されている地域です。車で通過はできるものの、人が住んでいないため、町はひっそりと静まり返っていました。

福島県には、いまだ放射能汚染により人が帰れない土地があるのです。

ある日突然、自分の生活や思い出が染み込んだ土地を離れなければいけないなんて、想像しただけで恐ろしいです。空き家の割れた窓からは、そこでかつて生活していた人々の痕跡が伺えました。

そして帰還困難地域とセットで語られるのが、特定復興再生拠点です。初めて聞いた言葉だったのですが、これは故郷に帰りたい人のために、帰還困難地域の森林などを抜いた面積の10分の1を徹底的に除染して、人がまた住める土地にするという施策です。飯舘村では長泥地区の一部が復興再生拠点に指定されています。

原発事故では、その当時の天気が汚染区域とそうでない区域の分け目となりました。
事故によって放射能物質が飛散した時の風向きによって汚染地域となった場所があれば、汚染を免れた地域もあります。天気ひとつで、その後の行く末が変わったのです。
あの日、南西の風が吹いていたら、放射能が東京まで運ばれ、汚染が広がっていた可能性もあったのです。

そして原発事故当初は、最悪のシナリオも想定されていました。もし4号機の燃料プールがなくなり使用済み核燃料の放射性物質が大放出されていたら、東日本壊滅にまで及んでいたそうです。
これは首都圏で暮らす3000万人もの人が退避を余儀なくされなくなる被害で、首都圏の機能を失ってしまうことを意味します。日本全体の経済も破綻していたかもしれないと考えると、今わたしたちが東京で暮らせているのは、さまざまな幸運な偶然が重なったことと、現場の方々の尽力のおかげだったのです。

「しかし元をたどると、原発さえなければ大震災がおこったとしても福島県が放射線被害を受けることもなかった」。車内から浪江町を回りながら、千葉さんは本当に悔しそうに語っていました。

首都圏の電気を賄うために作られた原発が、震災から11年経った今も、福島に甚大な被害を及ぼしているのです。何も考えずに、好き放題電気を使っていた自分に、後ろめたさを感じてしまいました。

再生可能エネルギーだけではやっていけない現状

次に訪れたのは南相馬市にある「原町火力発電所」です。東北電力の石炭火力発電所であり、153万㎡という敷地面積に対して年間200万kWの発電が可能な発電所です。

なぜ再生可能エネルギーではない火力発電所を見学したのかというと、施設の規模と発電容量の違いを、再生可能エネルギー発電所と比較するためです。

再生可能エネルギーは環境破壊や原発事故のようなリスクもなく、全部再生可能エネルギーにすればいいじゃん!と、無知なわたしは考えてしまうのですが、やはり自然の力を借りるため、発電量を人間が100%コントロールできるものではありません。

それを、知ることになったのは続けて見学した「南相馬真野右田海老太陽光発電所」でした。
約110万㎡という敷地面積に対して年間6万kW)の発電容量があるのですが、これは先ほど見学した原町火力発電所の敷地面積に対する発電容量のほんの26分の1程度になります。

しかも太陽光発電は、当然のことながら太陽が照っている間にしか発電しません。もっとも発電できるお昼以降はパワーダウンし、夜になれば発電量はゼロになります。自然の力を借りるとは、そういうことなのです。

火力発電並に発電量をあげようとすると、敷地面積を増やしていくほかないのですが、国土の小さい日本で実現しようとすると、あっという間に土地が足りなくなってしまいます。
現時点では環境破壊に目を瞑り、24時間フル稼働と安定した発電量を担保できる火力発電に頼らざるを得ないのです。いくら再生可能エネルギーがいいといっても、いま現時点では、火力発電がなくなってしまうと、電気が枯渇してしまう。そんな現実を、まずは目の当たりにすることとなりました。

再生可能エネルギー100%を本気でめざすなら、誰かがそれをやってくれるという考え方ではなく、自分たちができる範囲で電気を作り、その電気を無駄遣いせずに節約するという両輪でやっていくしかないと、佐藤教授はおっしゃいます。

そして大都市圏に日本の人口の半分が密集しているため、その人数分を補うために地方の土地と自然をおすそ分けせざるを得ない現実も指摘されました。

今まで節電というと、電気料金を下げるためにするものでしたが、限りあるエネルギーを節約するという視点を持たないといけないんだと、ハッと気づきました。自分たちで使う電気は自分たちで作るという、シンプルな循環ができれば、地方に電気を作る役目を押し付けることもなくなるのです。

太陽光発電×風力発電のクロス発電の可能性

電気をすべて再生可能エネルギーにするのは不可能かというと、希望がないわけではありません。再生可能エネルギーは5つあるため、それぞれを併用することで必要電力を賄える可能性があるのです。

次に向かったのは「万葉の里風力発電所」です。
130mほどの高さの風車が4つ稼働していて、設備稼働率は20%ほど。4基合計で年間9,400kWの発電容量になります。巨大な風車を間近で見たのは初めてだったので、その大きさに圧倒されました。無駄のないスタイリッシュな造形がかっこよく、いくら眺めても飽きません。

そして風車は昼夜関係なく風があれば発電するため、太陽光発電と併用することで安定的にエネルギーを供給できる可能性を秘めています。そんな風車が、さらにかっこよく見えました。

再生可能エネルギーは、その土地の地形や環境によって向いている発電とそうでない発電があります。
風力発電の場合は、1年中同じ方向から一定の強さの風が吹いてくる環境が最適なんだそうです。風がなければもちろんのこと、台風など、風が強すぎても風車の羽根の破損の恐れがあるために発電することができません。

その点、ヨーロッパの北部は最高の環境なんだとか。年中風が吹いているうえに土地が平らなので、ちょっとした丘に風車を建てるとものすごい稼働率を誇るそうです。設備稼働率は50%と、なんと日本の2倍以上。
たしかに、「アルプスの少女ハイジ」の世界のように、ヨーロッパの穏やかな草原がある地域で風車が回っている姿は想像しやすいです。

風車から垂れているロープは、ロープマンという特殊技能を持った人が、
たびたび点検のために使用している。
羽根は分解できないため、1本の長さのままトレーラーを運んでこなければいけない。
風車の大きさは、運べる羽根の長さによって決まるんだとか。

3つの施設の見学によって、石炭火力発電と、再生可能エネルギー発電の違いを実感することができました。再生可能エネルギーが火力発電の代わりになるためには、電気を使うわたしたちの意識から、変えて行かなくてはいけないと、強く思いました。

また、支倉さんからは、規模と発電容量の違いをまずはビジュアルとして伝えられると、より見学の深度が深まるのではというアイデアをいただきました。確かに、パッと見てわかる資料があると、より実感が強くなりそうです。

福島復興の先陣を切った飯舘村

バスでしばらく移動し、次にやってきたのは飯舘村の村役場がある地域です。
飯舘村は日本で最も美しい村連合に選ばれるほどの美しい村で、震災前は6000人ほどの村民が住んでいました。しかし除染がひと段落した現在でも戻ってきた村民は1250名ほどで、特に20歳未満の若者が1.7%しかいないという問題を抱えています。日本少子化が叫ばれて久しいですが、それにしても若者の少なさに愕然としました。
また、原発事故直後は放射線量の高さが正しく認識されず、全村避難が遅れてしまいました。原発立地区域ではないために原発交付金の恩恵を受けることがなかった村でもあります。踏んだり蹴ったりとは、まさにこのことです。

そんな飯舘村ですが、前例のない除染事業を進めるのに大変な苦悩があったと思います。
速やかな福島復興のために村内だけではなく、周辺6市町村の放射能汚染された瓦礫などのゴミを引き受ける仮設焼却施設を蕨平に設置されました。放射性物質を除去し減容化という容積を減少させることで生まれるメリットを推す賛成者と放射性物質の危険性を憂う反対者の意見のぶつかり合う中で出された、難しい決断だったと思います。


現在は年間182億円の予算が付与され、道の駅や葬祭場、小中一貫校などの公共施設が続々とリニューアルされています。

野球場や室内テニス場を備える小中一貫校は2020年に予算を投入されて建てられました。コシノヒロコデザインの制服は無料支給され、教材費や授業料、給食代のほとんどを村が補助。さらに授業の後の塾までもが無料で開講されるという手厚い待遇になっています。

写真元:https://www.gantan.co.jp/works/8917/

しかし、リニューアル開校時は75名の生徒が通っていましたが、2022年は68名と、年々子供達が減少しているのです。また、30〜40名の学生は飯舘村ではなく村外の避難先から学校に通っているという現状です。
こんなに立派な施設があるのに、それを存分に活用できていないもどかしさを感じてしまいました。

千葉さんは、はやく若者に飯舘村に戻ってきて欲しいと願います。そのためには公共施設のリニューアルといったハード面への投資だけではなく、人間同士のネットワークを構築するソフト面への投資が必要だそうです。いかに帰村民が増える状況を作ることできるのかが、今後の飯舘村の課題だそうです。

しかし飯舘村には明るい兆しも射しています。
200名ほどの外部移住者が新しい村づくりをはじめていたり、震災前にブランド牛として育てていた飯舘牛の育成に力を注いでいる村民や、えごま栽培をし、えごま油の販売を道の駅などで行なっている村民もいるんだとか。
飯舘電力ももちろんのこと、それぞれの村民が飯舘村復興のために自分たちできることを、少しずつ積み上げているのです。

小中一貫校の前には特別養護老人ホーム「いいたてホーム」が建っています。穏やかな老後を過ごすために、自然豊かな飯舘村に終活として訪れる老人を見込んで建てられた老人ホームです。しかし震災前は112名いた利用者は現在38名まで減少しています。

写真元:http://yu-architect-associates.com/all_works/medical/iitatehome1/iitateshintiku.html

そんないいたてホームの前には、飯舘電力の第1号機である太陽光発電のソーラーパネルが設置されています。太陽光発電にぴったりの南向きの斜面で光る太陽光パネルが飯舘村や村民からの期待のシンボルなのです。

1枚250W発電する太陽光パネルが216枚設置されている

さらにいいたてホームの裏側には再生可能エネルギーのひとつであるバイオマス施設が設置されています。震災前は周辺の豊かな森林の間伐材や枝打ちされた木材という捨てられるはずの木材をチップにし、それを燃やしてエネルギー変換をおこなっていましたが、現在は放射能による森林汚染の問題から他の場所からチップを運んで燃やしているそうです。
作られたエネルギーを電力に変えるのではなく、熱供給として飯舘村役場やいいたてホームにお湯を提供しています。バイオマスの燃焼で得られる熱は、そのまま熱として活用する方が効率的という理由からです。電気ばかりに目が行っていましたが、なるほどと思いました。また、ボイラーからの煙突にはバグフィルターがつけられており、排気中の有害物質を高精度で除去しています。

小中一貫校の隣には山があるのですが、この山は半分ほど削り取られています。


汚染された土から、放射能だけを取り除くことは実質不可能です。土が汚染された場所は、土ごと3〜5センチ削り取らなければいけません。削った場所を元の高さとするために、汚染されていない土壌が必要でした。

住宅汚染や農地汚染の除染作業により汚染土が詰められたフレコンバックは、飯舘村だけで283万袋を超え、その重さはおよそ550万トンにも及びます。フレコンバックの周囲を遮蔽して放射線量を下げるためにも、土壌が必要でした。

想像を絶する量の土を得るために、この山は半分なくなってしまったのです。目の前の大きな山が、本当は倍の大きさだったなんて。削り取られた山肌が、なんとも痛々しく見えました。

人間が選択を間違えなければ、山が削り取られることもなかったと、千葉さんは悔しそうに説明していました。かつて美しい村だった飯舘村の風景が放射能汚染によって変えられたことに、胸が痛くなりました。

バイナリ発電と小水力温泉を有する唯一の温泉街

日が沈んできた夕方ころに、1日目の宿泊地である土湯温泉に向かいました。
土湯温泉は標高450mの谷あいにある温泉街で、聖徳太子の時代から続く歴史ある温泉街とされています。福島市内にある温泉地の中でも、特に観光に積極的な温泉街でしたが、東日本大震災の被害はとても大きく、震災直後には観光宿泊客が県内外からひとりも来なくなってしまいました。

お客さんの数に関係なく、一定の人件費や食費の費用がかさむ温泉街において、大きい温泉旅館から潰れていったといいます。
ひとりもお客さんがいなくなった温泉街の姿をみて、土湯温泉で働く人たちは、未来が想像できないくらい絶望したそうです。大震災は、温泉街の活気も未来も奪ってしまったのです。

そんな絶望から土湯温泉の復興のために立ち上がったのが、現在再生可能エネルギー事業を行なっている「株式会社 元気アップつちゆ」の初代社長である加藤勝一さんでした。子供の頃は、温泉街の旅館の現社長たちをひきつれて遊びまわっていたガキ大将だったという加藤さんは、旅館の社長たちの懇願により復興再生協議会を立ち上げました。

さらに再生可能エネルギーの普及を目的とする固定価格買取制度FITがはじまるのを機に、加藤さんは土湯温泉街が持つ自然エネルギーに着目されました。山間部にある土湯温泉街には東鴉川の急な流れがあり、高温の源泉があります。その土地の利を生かした、小水力発電と地熱バイナリ発電のふたつが叶うことが判明しました。

そして復興のために再生可能エネルギー発電所を土湯温泉に作ると加藤さんがテレビで話しているのを、千葉さんは偶然観ていたのです。居ても立っても居られなくなった千葉さんが加藤さんに声をかけ、2012年に一緒に「元気アップつちゆ」を立ち上げました。
そして再生可能エネルギー事業をはじめるにあたって、学術的な立場で支えてくれたのが佐藤教授でした。メーカーとの打ち合わせや報道発表の場に同席してもらったり、様々なアドバイスをいただいたりだとか。

しかし佐藤教授いわく、発電所ができたのは千葉さんの熱意と技術者としてのレベルの高さがあったからこそだそうです。さらに加藤さんのリーダーシップと人徳があわさって「元気アップつちゆ」は民間企業で唯一のバイナリ発電と小水力発電をおこなう会社になりました。小さな温泉街から、福島復興の兆しだけでなく、カーボンニュートラル社会の種が芽吹いた瞬間でもありました。

これは再生可能エネルギーが地域起こしになることを証明した事例でもあり、土地の特性を活用した再生可能エネルギーの地産地消モデルとしても、土湯温泉は重要な見学地なのです。ここの見学なしに、福島の再生可能エネルギーは語れません。

この日は土湯温泉街にある山水荘という旅館に泊まりました。大浴場と露天風呂も備え、従業員のおもてなしも抜群でした。土地の名産品をいただきながら、再エネ談義に花を咲かせるうちに、夜は更けていきました。

(2日目に続く)

(文:李生美)


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