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今、目の前の世界はみんなと同じ世界?

子供の頃、こんなことを思って不安になったことが何度もある。
ぼく自身が今、この瞬間に見ているもの、聞いているものというのは本当に他のみんなにも同じように見えているのか、聞こえているのだろうか。

いまの自分は本当に自分なのか

そもそも今、結婚していて子供も3人いて、数年前にマイホームを購入して…もしかしたらこれはぼくの幻想の中だけの話であり、本当のぼくは家に引きこもっていたり、寝たきりの老人だったり、超有名芸能人だったり、日本人じゃなかったり、はたまた人間じゃなかったり…。

たまにふと、そんなことを思うことがあるだけなので、とくにこれまで友人や会社の同僚、家族にもこんな話をしたことはない。
こんなこと考えてる人ってぼくだけなのかなと思っていたし、そこに答えなんかないとも思っている。

ぼくの人生の中でなかなかの影響を与えられた本で、全く一緒というわけではないものの、なんとなく感覚的には近いようなことを言っている人がいて、なんだかちょっと勝手に親近感が沸き、自分だけじゃないんだな、とも思った。

人間スーツ

この本の中では”人間スーツ”という表現をされいるが、この感覚がなんとも似ている。
毎朝、誰かが自分というスーツを着て生活しており、スーツを着ると同時に記憶を含めてその人という役になれるという人間スーツ。
つまり、ぼくという30代後半の郊外地から都内へ通う3児の父の役を誰かが演じており、このnoteを書くということも含めて演じられているということだ。
そして、夜眠ると同時に今日ぼくを演じていた“誰か”はぼくという人間スーツを脱ぎ、次の日また別の誰かのスーツ着て、別の誰かの人生を生きる。
これをおもしろいと思う人もいるだろうが、なんだか怖いと感じる人も少なくないだろう。
著者さとうみつろうさんは、自分自身の見えている世界に疑問に感じ、人間スーツというものでその疑問を解き明かそうとしたのではないか。

探してみると他にもいろいろ

他にもマトリックス(ちゃんと見たことはない)や海外ドラマ(タイトル忘れた)で見た、人間の肉体としての死後、コンピューター上で意識だけを残して、仮想世界で生き続ける系の話も、ぼくが考えた内容と近しいのではないかとも感じ、なんでかちょっと優越感を感じたりもする。

ぼくとしては、自分自身というもの自体はあるものの、その見えている世界がみんなそれぞれ全く違っている、ということがあるのではないかと思っている。
自分では風呂に入るために脱衣所で服を脱いでいるだけなのに、そこは実は街中で、ぼくのみえていない世界では変質者扱いされているかもしれない。
子供と楽しく歌っていても、実は電車の中でいきなり大声で歌いだす人になってたりしないだろうか、という不安に駆られるときがたまにある。

正解はない…!

“悪魔とのおしゃべり”にもあるが、この考えの1番のポイントは誰にも正解がわからないこと。
たしかに、ぼくが見えている世界はぼくにしか見えていないのは事実であり、他の人と見えているもの、聞いていることをぼくは知ることができないので比べることもできず、立証ができない。
つまり、そんなことを考えてても答えは出ない、少なくとも凡人に答えを出すのは難しいのだから、考えても無駄…となり、ぼくはいつもそこで考えるのをやめてしまっている。

この本の著者、さとうみつろうさんやマトリックスの原作者などはそこの部分ををさらに深く、考えたのだろう。
しかし、この人間スーツ理論に触れて改めて考えてみると、この空想は必ずしも無駄ではないのではないかと感じる。

この考えを現実に置き換えてみる

人間スーツのように日々、中の人が変わっているとかうちの脱衣所が街中だとか言うと、あまりにも現実味のない話になってしまうが、一般に男性より女性の方が痛みに強いだとか大人と子供の視点が違う、というのも広い意味では同じなようにも思える。

よく考えるとあたりまえなのだが、人は誰1人として自分と同じ人はおらず、だから当然見えているもの、聞こえる音、香りや味の感じ方、触った感触、感情などを全く同じように感じることはない。ない、というよりは、同じなのか違うのかが誰にも判断できない。

そんなあたりまえの事が、生きているとどんどんみんなわからなくなってしまって、いつの間にか自分の考えが世の中のど真ん中であると思ってしまう。
セクハラやらパワハラなどはその典型であり、今の若い世代がこういった多様性への受容度に感心が高いというのは、自然の摂理として当然の事なのかもしれない。

大切にしたい価値観

ぼくと妻で価値観が一致する数少ない事柄のひとつに“傲慢な人”への嫌悪感がある。
居酒屋で店員に向かっていきなり偉そうな口をきく同期や勘違いして取引先に横柄な態度を取るグループ会社社員、自分の感情や損得で仕事をする人たちには激しい嫌悪感を感じる。
このような人たちは、自分の世界が他のみんなの世界と同じものであると思い込んでいるのではないかと感じる。

相手の立場になって考える、自分だったらどう思うか考える、などと聞くとなんだかあたりまえの言葉に聞こえてしまうのが不思議だが、みんな見ている世界が違うのだから、いろんな答えがあって当然。
子供たちにはこのような考え方で、多様性を受け入れられる懐の広い人になってもらいたいものだ。

相手の立場に立って考えなさい、自分だったらどう思うか考えなさい、と偉そうに言っているその大人たちが子供の目線に立っていない。
でもそんな矛盾も含めて、親もひとりの人間であるということを知ることも重要。
子育てひとつとっても何が正解で何が常識なのかを自分なりに考えながら、生きていくことが大切なのだという結論で締めようと思う。

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