得るものとすり切れるもの
自分で言うのもなんだけれど、わたしは最近頑張りすぎている。
少し前から、頭痛が絶えなくなった。
その次は、夜になると胃が痛くて動けなくなった。
そのうち昼間も胃が痛かったり、お腹がくだるように。
そしてとうとう、呼吸の仕方が分からなくなってしまった。
ちゃんと吸っているはずなのに、胸が苦しい。
「イライラするとき、疲れた時は深呼吸」
そう言い聞かせて息を吸い込むけれど、肺がちっちゃくなったの?と言うくらい空気が入ってこない。
吸っても吸っても足りない、その最中に声をかけられたのでフルマラソン後のような状態で返事をすることになった。
それでもあの人はわたしの様子がおかしいことにも気づかなかったけど。
ヘルパーセラピー原則という言葉、知っているだろうか。
「援助を受けるものが最も援助を受ける」とも言い、援助者は単純に援助するのみではなく、援助することで自分も何かを得ている。
ということ。
医療従事者や介護従事者に対して使うことが多い表現かもしれない。
わたしは、自分が援助者としてこの仕事をしてきて、確かにそれを感じる。
しかし一方で、それに頼りすぎだと感じることもある。
支援をする。
それは自分たちが学んできた技術、知識、それからこれまでに得てきた経験。
自分の持っている手段を尽くして、支援をする。
わたしに出会ったことが、ほんの少しでもその人にとってプラスに働いてほしいと思う。
けれど、こちらも人間。
いきなり怒鳴られればショックも受けるし、セクハラをされれば悲しくもなる。
それに、結局勤め人だから、できることとできないことがある。
会社や社会のルールを無視してまで、支援をすることはできない。
こういう職業の人は、被支援者からのネガティブなアプローチになれてしまっている。
だからセクハラをされても、揉めないように愛嬌を込めて叱り、その場を受け流せてしまう。
突然怒鳴りつけられても、神妙な顔をして話を聞き、落ち着かせて、その場を収める。
一般社会だったら目玉が飛び出るような無茶な話も、丁寧に話を聞いて、説明を続ける。
でも、それは本心じゃない。
揉め事が大きくなると、現場の動きに差し支える。
人の感情は伝染するから、大声を出して揉める人がいると、他の人たちも落ち着かなくなる。
落ち着かない人が増えると、安全性が下がってしまう。
だから、自分を押し込めて丸く収める。
支援することで得るものも多いけれど、すり減るものも多い。
支援者を支えるのは、その事業所に他ならないと思う。
支援者の勤める事業所と、その中の枠組み。人間関係、個人への理解。
それらがどっしり安定しているなら、すり減るものは少ない。
すり減っても、共有して、全体の問題として捉えていけるので、個人がすり減らない。
援助者は得るものも多いけれど、失うものも多い。
得るものを増やして失うものを減らせるか、その逆かは、単純に個人の力量だけではないと感じるこの頃。
ただ、受け取った物を大きく感じるか、微々たるものと感じるかは個人の心なのかもしれない。