【レビュー】五十嵐律人『原因において自由な物語』

原因において自由な行為について争われる例は、裁判実務上、おそらくそれほど多くない。それは、責任能力が争われる事例において、仮に飲酒や薬物によって責任能力が争われる場合であったとしても、飲酒や薬物摂取の時点で自らの行為を予見できているのであれば、少なくとも未必の故意に欠けるところがないというのが通例だからだろう(最判昭和43年2月27日参照)。

それでも、刑法理論の緻密さや精密さというのを超えて、この用語自体には抗しがたい魅力があって、意味は分からないけど何となくカッコ良い、そこに秘められた色んなものを想起させる、そういう感じがする。この言葉を、タイトルを含めた重要なモチーフに据えたことには、けだし、理由がある。

では、原因において自由な物語、とはどういう意味だろう。もちろん、単にカッコ良いから付けてみた、というわけではないだろう。行為とは、被疑者または被告人の行為であって、自由も同じく、被疑者または被告人にとっての自由である。これを同じように理解するとすれば、物語とは、登場人物の物語を指し、自由もまた、登場人物の自由を指すのだろうか。

人は、自由に行為を選ぶことができる。だからこそ、選んだ行為によって生じた責任を負わねばならない。この考え方を貫いて、被告人の責任を問うために、原因において自由な行為の理論が生み出された。

では、人は自由に物語を選ぶことができるのだろうか。物語とは何か、を定義することは難しい。これが、人や出来事についての語り、あるいは語られた話の筋のことだとしたら、1人の行為と1つの結果にいて考えるよりも、話はもっと複雑になる。

主人公や登場人物が、それぞれ自由に選んだ物語は、交わり、輻輳して、結末に至る。そこに、話の筋という意味での因果関係は存在するが、果たして、誰か1人に全ての結論を帰責できる明確な理由を見出すことはできるだろうか。

物語は限りなく自由である。だからこそ、結末だけではなく過程が、作者の創意工夫によって示される。結論だけでなく、過程を含めて、その全体が読み手に受け入れられるように。

「物語が持つ力。いつの間にか、私は見失ってしまっていた。
想護は、どうだっただろう?過程を描くことで、不合理な結末に納得や共感を与える。その可能性に賭けて、物語にすがったのだとしたら?」

原因において自由な物語によって発見されたのは、物語の過程それ自体の自由と、それを読者に提示する小説家の決意だろうか。


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