【🆗/大人向け】 春の月

　※ 春子さんと安田くん
　※ ミズノ節全開

午睡

　ほんの一口だけお酒を飲んで眠った。
　昼前のことだ。
　夢を見たことは覚えているけれど、何の夢だったのかは思い出せない。

　でも確かに『あっ』と思って起きた。

　体のどこもかしこも、足の裏までぽこぽこ火照っている。額に当てた手の甲にしっとりと汗が付着した。窓から淡い橙色の光が流れ込んでいる。白い壁紙にうつる影は極めて薄いネイビー、空は遥かに透けゆく水色で、幽けき雲の陰はピンクで、その縁は金色に燃えて、いけない、夕方まで寝ちゃった、と分かるまで長かった。少しだけ休むつもりだったのに。自分の体温をたっぷり含む布団にも輝くオレンジの光が当たっている。

　ちょっと暑い。
　冷たいものを飲みたい。
　表面のとろけた氷が浮かんで透き通る、冷たいお水か、甘いお酒を飲みたい。
　このまま、こんなにぬくい体では、魂を縁取る線が暖かい空気にとろりと溶けて、一緒になって、中身がすっかり出ていってしまう。空気が春子なのか、春子が空気なのか、分からなくなってしまう。冷たい何かを取り込んで、輪郭をきっぱり、取り返さなくては。

　私、何か夢を見た。
　春の午睡にふさわしい、華やかな、火照って汗までかくような、なんらかの夢を。

　春子は先月あたりにふつ・・と思いついて描き始めた一枚の油絵を、ずっと若い頃、それこそ、音もなく忍び寄る大病の沈黙する影にすら気付かぬ二十代の頃と同じ速度で描き上げたところだった。描き続けた。それで、かなり消耗した。

　例年に比べてやわらいだ気候が続いたためか、多少の無理ができるような気がして少しやりすぎたかも知れない。夫の安田康太は心配していたが、絵を描く人間や楽器の演奏に長けた人間、自分の内側を吐き出さずにはいられない、特に女に言っても聞きやしないことをよく分かっているらしく、見守るだけに留めてくれていたからありがたかった。

　しかし、彼の心配は的中する。
　絵の完成のために、『描く』と決めた瞬間から必要だと知っていた最後の瑠璃色を捌き終えた後、疲れが突如として鉛状の重さを得て、小指の爪の先にまでのしかかり、春子は立ち上がることに対してすら相当な苦労をした。
　病の床から復帰して以来、ムラこそあるが必ず発せられる極端な疲れというのは厄介で、術後の傷痕を発端に、全身に波及して痛み始め、根を下ろすようにして血管全体に乗ってあちこちを巡り、細胞一粒一粒から生命力を吸い尽くさんばかりのじわじわとした嫌な感覚であって、そのくせ春子にやさしく寄り添い、『忘れるなよ』と囁きかけてくる。

　春子はそういう時、アルコールの力を借りた。
　ほんのささやかな一杯を、そっと口にする。
　嫌味なく甘く、とろりとした液体は春子の体によく馴染み、同じように血管を通って、病魔の残穢か黒い吐息に萎れる細胞をぴっちりと甦らせるように感じられた。　

　でも、決して飲みすぎてはいけない。
　一口でいい。
　魔法の水は、一口で足りる。

　眠る前は、間違いなく涼やかに晴れた昼だった。
　風は時折強く吹いた。
　夏の嵐を予感させる激しさではない。激しくはないが、ぴかぴかの新緑が混ざり始めた桜の木々に勢いよくはしゃぎついて揺らして、花びらを絶え間なく散らせる程度には思いがけず力強い、育ち盛りの子どものような風。
　ぬるく、ぷるぷると水気の豊かな、透ける空気の層がかき回されて光りながら散る。
　淡い風味の花びらは吹き溜まって、季節の移ろいのためにやや朽ちつつあったものの、しばしば起こる風に乗ってワッと渦巻いた。大型車両のタイヤがそれらをさらに巻き上げながら走り、桜色の水飛沫さながら、踊るようにして湧いて、落ち着きなくそわそわ、忙しない様子が、全て新しき春だった。

　春、春。
　私の名前。
　春ちゃん、と呼ぶ美しい夫。
　彼の目元のやさしさに季節を与えるなら、春だ。

　ああ、まだ少し眠い。
　白いレースのカーテンの翻りに視線を誘われて窓の外を見ると、赤ん坊の寝息くらい薄くかろやかな夕空に、花びらが飛んでいた。吹き上がる風に乗ってどこへともなくきらきら。
　沈みゆく日差しを受けて、霏々と舞いながら、きらきら、きらきら……。

　群れで飛ぶ鳥の白い翼の裏が、不意に光を弾く様子にも似ていた。

　駐車場で子供が遊んでいる声が聞こえる。
　誰かが吹いたシャボン玉も飛んでいる。
　ぱちぱち、消えながら花びらと一緒に。

　追って眺めた先に月があった。
　夕方ではあるが……病めるは昼の月と呼ぶに相応しい薄い月である。『病める』とはまた気の毒だが、それ以上に美しい呼び方はないようにも思われた。
　木枯らしが高いところをびゅうびゅうと吹き荒ぶ冬の空に浮かんでいる時の心細い薄らぎ方ではなく、寝床のぬくもりにまだとろとろ微睡んでいるふうにも見える。こちらの方が平和で好きだ。

　布団をのけて、足を下ろす。
　爪先が、指先が、暑い。

小さなカレンダー

　照明はつけなかった。今日の夕暮れの橙色が濃度を変えてゆく様子を知りたかった。紺色の陰の中、洗面所で顔を洗う。口を濯いで水を飲んだ。冷たい。サッと体の中を走っていく。血の温度が下がる。体の輪郭が分かる。浮かび上がる。崩れる灰がごとくほころびかけていた指先の影が明瞭になって春子の命の形を結ぶ。

　鏡の中の女を西日が強く照らしていた。
　明るい髪の色は金色に近いくらい透かされるのに、瞳だけはひたすら黒い。わずかに深い焦茶色に光る瞬間があるが、ほとんど真っ黒だ。
　時々、親しい人々の瞳の明るさを羨ましいと思うことがある。

　路海は、本人も把握していない血統の影響で、全体的に色素が淡い。骨格の基盤はアジアだが背が高く、異様に美しい。バッとその場で光が爆発するような迫力がある。緑の瞳や栗色の髪の毛は欧州の人々に似ている。こんな西日を浴びたなら、彼女の瞳はどれだけ透き通ることだろう。
　それから葵もそうだ。彼女は全体的にちんまりとしていて、童話の snow white さながら、射干玉の髪に白い肌を持つ東洋の人だが、不思議なことに虹彩がやたらと青っぽい。普段は、普遍的な焦茶色なのに。囂々と唸りながら燃える瑠璃色が垣間見える瞬間がある。人間をどこかに『引っ張り込む』人の瞳で、とても綺麗だ。

　緑も、青も素敵。
　いいな。
　私も、もし次に生まれたら、どっちかの色になったらいいな。
　それか、静かに揺らぐ紅茶色がいい。
　康太さんの瞳の色。
　お揃いだ。
　ア〜ラ、いいじゃない、指輪と一緒ね、なんて次の人生でも高らかに笑ってくれるはず。

（なにをまた、夢みたいなことを。）

　我ながら少女らしい願い事だ。少し笑って手洗いに入る。ずいぶん若い頃から飲食店に携わってきた夫のこだわりで、常に清潔で、明るい照明で、小さな花が飾られている。まめな人である。
　生理用品をはじめとした女性用品をしまっている小さな棚の上にカレンダーを置いている。ちょっとした共有事項を書き込む用のそれだが、ほとんど夫の用事だ。

　春子が書き込むのは、生理があった日。
　別段、夫に知っていて欲しいわけではない。彼も何も言わない。

　あどけない少女の頃に訪れた初潮に遡り、春子の月経周期は極めて安定していた。ぴったり28日の円で巡り、出血は7日で収まった。
　どんなに辛いことがあっても、高熱が出ても、ひどく嫌なことがあっても、引き裂かれんばかりのことがあっても、変わらず巡り続ける奇跡的な生理『だった』。
　重い月経症に苦しむ友人たちが気の毒でたまらなかった。みんなの前ではしれっとした顔で耐えているだけで、誰もいないところで蹲っていたり、泣いている女の子を目撃するのは辛かった。
　でも、何もできない。
　特に順調に月経があり、痛みがほとんどない自分に気にかけられても不愉快なだけではないかと怯んでしまった。とても若い頃だ。

　今は違う。
　春子の生理は、三途の川を渡りかけた病を境に、まったく不順になっている。
　年齢的なものもきっとあるだろう。春子はもうじき、40歳になる。早い遅いが人それぞれであることに違いはないが、月が徐々に細くなるように、出血の量は減っていった。思い出したように、規則を破って不意の満月になることも時折あるが、全体を通してひそやかに落ち着きつつある。

　いつかそう遠くない未来で、時々満月になりながら、昼の月のようにすっかり薄らぐのだろうか。同い年で第一子を産むタフな者もいるけれど、どうやら春子には無理らしかった。

　もとより赤ちゃんのことは考えていなかった。
　しかしそういった悪意なき話を伝え聞いて少しだけ落ち込んだ時期がある。春子の、こんなになってしまった体でも、絵を売って得たお金をかけて無理をすれば、なんとかなるのかもしれない。

　ちらりとだけ夢に見た、鮮やかな幻。
　でも、夫の安田康太には言わなかった。　
　彼は間違いなく、春子の落ち込みを真正面から受け止めるし、真正面からなんとかしようとするだろう。そして、きっと、赤ちゃんが産まれてくるよりも確実に起こりうるであろう全ての悲しみから、春子を守ろうとして、守りきれなくて、自分を責めるだろう。

　だから、夢でいい。

　路海にだけは、ぽそっと言った。
　吉岡健一氏と若くして結婚した彼女だったが、赤ちゃんの話が出ることはなかったし、もちろん、聞くこともしなかった。
　40歳を前にして、予想される理由はなんとなく分かっていて、うまく言えないが、春子はもうどうにも泣き伏せりたくてたまらないくらい心細くて、でも愛する夫にはとても言えないし、どんなに良くしてもらっていても、いいや良くしてもらっているからこそ、子どものいる葵には相談できないし、そうなると、同い年で、友だちで、同じ夫婦の構成の路海にしか打ち明けることができなかった。

　信じて助けを求めた。
　路海は、数多の音符の群れを怯まず弾き続けた指先まで長く美しい腕を白鳥の翼のように開いて、凄絶な緑の瞳で、確かに助けに来てくれた。

　美しい彼女は黙して春子の胸の内を聞き続け、たったの一言も否定しなかった。
　話していくうちに耐えきれなくなり、激しく泣きじゃくる春子を抱きしめて、赤ちゃんをあやすように、優しく揺れながら、背の高い路海はぽそぽそと教えてくれた。
　それらは春子の頭と心に、あたたかい光の粒に似て降った。

　生まれついて赤ちゃんを産めない体であること。
　吉岡健一は最初からそれを知っていたこと。
　そして一度だって、路海を責めなかったこと。
　養子を迎えようとした時期もあること。
　しかし、時として体の痛みを伴って現れるほどの路海の烈しい心の病と、しばしば甦る忌まわしい記憶から子どもを守るために、それらを諦めたこと。
　乳児院に寄付をしていること。
　今も少し未練があるということ。
　吉岡健一が実は大変な子ども好きだと知っていること。
　鳴川嶺二と葵の娘、みどりちゃんの成長を喜んでいる時の顔の優しさったらないということ。
　朝夕、『よしおか不動産』の前を通る子どもたちが変質者に会わないように、さりげなく見守っていること。
　いつも通る小学生の群れや、いつのまにか大きくなった学生たちに『おうち屋さんのおじちゃん』と呼ばれ、手を振って挨拶をしてもらえて大層嬉しそうにしていること。
　そんな彼に子どもを抱かせてやれないのは、路海のせいで間違いないこと。
　路海の『せい』だと思ってしまうこと。
　だけど全部ひっくるめて、なにもかもまとめて、二人で生きていくというのも、悪くないということ。

　あなたの大事な安田さんも、みんなと同じように、藤崎さんに元気で生きていて欲しいと必死になって願っている。

　生きていて。
　ね、藤崎さん。
　生きていて。
　それで、私と一緒に、遊びに行こ。
　あと10年くらいしたら、私たちきっとすっかり『上がり』だよ。
　楽しみだね。

（……。）

　春子はぼんやりと小さなカレンダーを眺めていた。4ヶ月の期間を空けて突然やってきた生理は、先週終わっている。
　路海の優しい声と眼差し、何も聞かず問わず、車で送ってくれた吉岡氏の無言の気遣い、帰りが遅いことを心配して、玄関先でウロウロしていた安田康太の戸惑った顔、『春ちゃん、どうしたのよ』の声の調子、運転席と助手席からそれぞれ手を振ってくれた吉岡夫妻、手を振り返して見送ったその日の夜中にした、静かなセックス。

　泣きながら帰ってきた理由を白状しない春子のことを、安田はベッドの中で諸々と手段を尽くして責めながら問うたが、黙秘した。
　彼は結局『ロミ子ちゃんと喧嘩したとかじゃなきゃあ、いいわ。』と諦め、春子がそこについては即座に強く否定すると、ニコッと笑って『なら、いいわよ。お友だちとは仲良くするのよ』などといつもの調子でからかった。
　正常位の、肌の近さに何より安堵した夜だった。

　色々と思い出してしまうと止まらない。
　体調の問題が大きく夫の体を受け入れる日は少なくなったが、触れ合いは多い。
　春子の体の中にある性欲が時折、春子の心を置いてけぼりにして、突沸するが如くブワッと溢れることがある。困惑するくらいに身体が火照り、瞳がチカチカして参る。夫がいる時なら彼の布団に遊びに行けるが、一人の時には持て余した。
　そんなつもりはないのに、手練れの彼に繰り返してもらった支配的なキスがよみがえったり、乳房を大切に包んでくれる手のひらのひんやりした感じを恋しく思ったり、突然訪れる『そういう気持ち』が今度は体に逆流して支配する。
　今、まさしく今。

　性器を、花柄がプリントされたトイレットペーパーで拭うと、透明な体液がぬるりと付いていた。
　膣が、乳首の先が、首筋が、きゅっとする。
　触りたい。
　触られたい。
　何かを受け入れたい。
　何かを『ここ』に入れたい。

　困ったことに、体の中の月が満ちたり欠けたりするふわふわした春子に触れて良い唯一の男は、今家を空けている。そろそろ、帰ってきてくれるはずなのに、まだかな。

　そわそわしながら軽くシャワーを浴びた。
　汗を流したかった。

午睡、再び

　安田康太は主たる住まいの他、各地に小さな拠点を持っている。若い頃はあちこち巡りつつ仕事をしていたようだが、春子の体調に翳りが見え始めた時期から他人に売ったり貸したりして整理したとのことだった。
　そのため、基本的には大きな駅の近くの『宇宙ステーション』、それか春子の愛する朱色の欄干がある郊外の『お庭のお家』に住み、月末あたりの週は今いる『学校の近くの古めのマンション』でのんびり過ごしている。
　どの拠点でも、春子と一緒に。

　結婚してすぐの頃、共に過ごすのは良くて週の半分程度だった。春子は（半ば強制的に名義を譲られた）宇宙ステーションに住み、安田は概ね仕事場か、篭って考え事をする用の小さな拠点にいて、時々『宇宙ステーション』に遊びにきた。
　病み上がりの春子のことを彼なりに気にかけてはいて、常に連絡はついたし、心細くなって呼べば全てに優先してすぐに駆けつけてくれたし、彼の部下の中でも特別に賢くて若い女の子や男の子、腹心の塩崎直哉が様子を見にきてくれることもあった。安田康太は、彼の幼馴染二人をしょっちゅう workaholic だと罵倒するが、最も重症なのは彼自身であって、もちろん自覚はなかった。

　春子は、自分だってそこそこ長いあいだ独り身でいたわけだし、彼の生活のリズムを自分のわがままで乱してはいけない、と思っていた。
　ところが、ちらちらと視界に写る再発の影に怯えて、孤独に対して驚くほど気弱になって、とても小さな声で、言ってしまった。
　じゃあ、木曜日くらいには一回寄るわ、何かあったらすぐ連絡して、あたしも連絡するからね、心配ないのよ、と手を振って出て行こうとする月曜日の彼に向かって、『行ってらっしゃい』ではなく『行かないで』と言ってしまった。

　ドアノブに手をかけたまま安田康太は一瞬、金縁サングラスの奥の目を見開いて凍りつき、すぐさま靴を脱いで上がって、春子を抱きしめ、『いいわよ』と言ってくれた。

『やだあ、そりゃ、寂しいわよねえ。ごめん、ごめん。あたしがバカだった。ごめんね、春ちゃん。生い先短いくせして、せっかくこんなに若くてかわいいお嫁さんもらったんだから、もっと年甲斐もなくはしゃいでイチャつきゃ良かったんだわ。いやあねえ、あたしってば、肩は上がらないわ老眼はくるわタチ・・もしないわのくたばりぞこないでさあ』

　彼は笑っていた。
　笑って、それからずっと春子のそばにいた。

　短い髪をタオルでパタパタ乾かして、柔らかい素材の下着をつける。外につけていく類ではなく部屋着のひとつで、胸の輪郭を矯正することはないし、腹部を締めることもない。
　女の体を気軽に彩るための下着だ。
　初めて安田に見せた時、なんであれ洒落者の彼は感心した様子で『いいわねえ、透かしがサイコー』と褒めてくれた。嬉しくなって、アクセサリの輝く手を乳房のふくらみの外側に導いたら、畏れ多いわ、なんて慄いていたっけ。
　でも、しっかり触ったからちゃっかりしている。
　あの人の手は冷たい。
　春子の体のどこを触っても、すぐに分かる。

　もうすこしだけ、と思って甘い梅酒を飲んだ。
　一口で効く魔法の水の二口目は春子の意識を容易く曖昧にする。
　体の欲求だけが浮き彫りになる。
　ふかふかのベッドにくらくら寝転んで、壁際に寄って、布団に潜り込んだ。湯から上がって間もない清潔な肌に、さらさらの敷布団が心地よかった。
　レースのカーテンがかかるだけの大きな窓越しに、宵の色を滲ませつつある春の空を眺める。駐車場を隔てた先にある校舎の規則正しい窓が輝いている。でも、もう夜になる。
　昼頃のやんちゃ具合はどこへやら、すっかり大人しくなった風は、カーテンの裾をなんとなく揺らすばかりで眠たげだった。

　静かで、気持ちいい。

　春子は瞼を伏せて、ごく自然に自慰を始めた。
　自分の『すーっ、すーっ』という呼吸が聞こえる。
　左手で乳房に触れる。
　ふよふよ、頼りない皮膚に包まれた柔らかいかたまり。若い頃はあんなにパツパツ、プリプリと漲っていたのに、今はただただ円やかに柔らかい。どこのパーツもそうだと思う。お尻も、お腹も、全部甘ったるく緩んだ。
　長い入院生活ですっかり筋肉が落ち、激しい痩せ方もした。リハビリのために短い散歩をし、なるべく、温かいお肉やごはんをこまめに食べるようにして多少ふっくらとはしたものの、元通りとはいかない。みすぼらしく浮かんでいた肋骨や尖った腰骨、うなじの骨を、誰よりも哀れんだのは夫だった。
　彼だって痩せているが、あれで案外、男の体をしている。幼馴染二人が壮年期でもなお筋骨隆々のタイプだから、並べるとほっそりしているように見えるというだけで、近くに座っていると、ぎくっとするくらいには力強い骨格だったり筋張り方だったりする。
　簡単に、春子を押し倒して好き勝手できる腕力がある人だ。組み伏せられたならひとたまりもない。
　実のところ、安田康太の四季折々に傾かぶいたシャツは、春子の体をすっぽり包んでしまえるくらい大きかった。

（あ……康太さんのパジャマ……）

　慌てていたのだろう。普段はきちんと洗濯カゴに入れているパジャマが布団の隙間から出てきた。柔軟剤ではない、彼自身の、夜に働く男の人のいい匂いがふくまれている。
　抱えて、鼻から深く吸って、続きをした。
　乳房は柔らかくて気持ちよかった。
　うとうと、曖昧になっていく。

　夢か現かの境目で、春子はまた夢らしきものをみた。
　おかしい、帰ってきたのは、安田康太ではなく塩崎直哉だ。
　彼は睫毛が長く、細めの眉が洗練されていて、鼻筋が通った耽美な顔立ちをしている。細かい事情を聞いたことはないが、安田康太、吉岡健一、鳴川嶺二の1学年後輩なのだという。何かの恩があるのか、1年しか違わない割にかなり彼らに尽くしている。先輩の3人には特段気にした様子はなく、吉岡氏に至っては『五十超えたらみんな誤差なのに、律儀なやつ』と笑う始末だ。
　春子は乳房や下腹部の輪郭が透ける下着しかつけていない。夫にならば見せても構わないが、塩崎には見せられない。そう思っているはずなのに、布団から出て彼を迎えている。
　いけない。
　春子は薄着のまま、ベッドの縁に座った。その隣に彼が座る。全く普通の友だちみたいに。
　カーテンが涼しい風に揺れている。

『実は僕、安田さんのことが好きなんです。』

　真剣な横顔だった。

『愛しているんです。』

　そんなあ、と春子は思った。
　春子だって、安田康太のことが好きだし、愛している。大事に思っている。
　でもまあ、安田康太という人物は男女を問わずモテてモテて、仕方がないことも知っている。綺麗な顔をしているし、おしゃれだし、遊び上手で優しいから。
　綺麗な顔といえば、鳴川氏だってとんでもない整い方をしている。綺麗すぎて人々を圧倒する。吉岡氏は一見すると大変な強面だけれど、『またロミ子と遊んでやってね』と、にこっとしてくれる時の目元の優しさにほっとしてよく見ると、実に精悍で感心する。
　だけど二人とも、平和な家庭がある男の人独特の満ち足りた雰囲気を持っている。
　だから変な女も変な男も怯んで寄りつかない。
　安田康太は、なんだかずっと、独身のように軽やかなのだ。職業柄といえばそれまでだが、春子の影を、きっと外までは持ち出していないのだろう。アクセサリもシャツも靴も煌びやかに纏って夜の街を彩ってきた水商売の人だ。お揃いの指輪をしていても、きっとそれを最高のスパイスのように思う浮気な連中がこの世にはいる。

　寂しいな、と春子は思った。
　もしも康太さん、こんな死に損ないでイマイチな私のことなんかあっさり見限って、ケロッとした顔で、真っ赤なドレスが似合うような女の人や美しい男の人と抱き合っていたら、どうしよう。

　だけど、塩崎さんになら取られちゃっても仕方ないような気がする。取られる……付き合いの長さで言えば、取られたのは寧ろ塩崎の方だろう。
　ずいぶん後に生まれて、ずいぶん後から現れて、ちゃっかり妻になった、と思われても仕方がない。
　ああ、どうしよう。
　塩崎が悲しげな顔で迫ってくる。

『安田さんを返してください。春子さん、僕に、みんなに、安田さんを返してください。独り占めするなんて、ひどい。安田さんを、返してください。お願いします。』

　そんなあ。
　やだよう。
　だって安田さんが私に『結婚しましょ』って言ったんだよ。

『ア〜ラ、そうだったかしら？　あたしには、やっぱり独身が似合うわ。華の独身、なんて言うじゃない、どうせなら、華がある方がいいもの』

　塩崎がいつのまにか安田康太になっている。
　スラリと長い足を組んで、嫣然と笑って。

　そんなあ。
　忘れちゃったんですか。
　新品の月の石がついた指輪、私にくれたのに。
　あんなに綺麗な指輪なのに。
　嬉しかったのに。
　ひどいよ。
　ひどい。

（ひどいよ……）

夫の帰宅

「ちょっと。ちょっと春ちゃん。春ちゃんったら。アナタ、酔っ払った上に寝ぼけてるのね、タチが悪いったらもう……ど〜ちたのよ。アナタねえ、忘れちゃったの？　直哉、子ども4人もいるでしょ。1番上なんかもう30よ。意味わかんない。結婚したと思ったらあっという間に子ども産んでたじゃないの。こないだ連れてきてたじゃない、ちーっちゃいやつ。直哉のヤツ、あのお耽美なツラひっさげといて、孫がいやがる。信じられないワ。あとアナタいいかげん覚えなさいよね、春ちゃんも安田春子ちゃんになったんでしょ。いやあねえ、ロミ子ちゃんの『よしおか〜』じゃあるまいし。ねーえ、安田春子さーん、お返事は？　お返事、ハーイは？　なによちょっとアナタ頑張りなさいよ、こんなの直哉の孫だって出来る primary な芸じゃないのよ、ちょっと、春ちゃんったら」

　安田のパパパパパッとした喋り声と、日本語の意味が分かって、春子はあれが夢だったことと自分の頬が涙で濡れていることを同時に理解した。
　夢の世界から現実に、景色を同じくして魂だけスライドしてきたような感覚だ。隣に座っているのは夫で、カーテンが揺れていて、穏やかな宵の初めで、春子は薄着だった。

「う、あ」

「やれ起きた起きた、オハヨ〜、お元気？」

　石鹸の匂いがする。

「シャ、ワー、浴びたんですか」

「最初の質問それ？　いいけど。浴びたわよ〜。道路挟んでお向かいのさ、ほらこまかいガキどもがいるじゃないの。あいつらの1番チビがさあ、いいもん持ってたのよ〜、トリガー引くとシャボン玉がワーッて出るやつ。取り上げて遊んでたら汗かいちゃったのよね。いやあ、あれはいいわ。今度店で使お〜。ああ、あとアレ、ほら筍とスナップエンドウいただいちゃった。あそこの奥さん、ご実家九州なんだってね。鹿児島のスナップエンドウよ。茹でてあげようか？　ツナマヨでも乗せてさ。ビールに合うわよ、きっと。」

　いつもの安田康太だ。
　よかった、ここが現実で間違いない。

　花びらと一緒に飛んで行ったあのシャボン玉は、そうか、この人の仕業か。ものすごく納得がいく。

　春子は頷きつつ夫に縋りついた。
　他の女や男の匂いがしないこと、結婚指輪がちゃんとあることを検めて、しくしくと泣いた。悲しいわけでもないのに涙が出てくることが、時々あった。なぜだか彼に懐いている近所の小さな子どもたちと、『危ないから道路に出んじゃないわよ！これっ！』と遠慮なく叱り飛ばす夫を想像すると、涙はもっと溢れた。

「……春ちゃん、どーちたの。傷が痛いの？　大丈夫よ、ごめんなさいね、帰り、遅くなっちゃったわね」

　冷たい手がそっと背中や頭、腹を撫でた。
　春子の体から、いくつかの内臓を奪った病は腹に傷跡まで残した。いよいよ腹を切らねばとなった時、そちら方面にやたら顔の利く鳴川氏が、抜群に手技の良い医師に話を繋いでくれた。女性の医師で、手術前に『あなたの、あの絵が好きなんです、ほら、葡萄の』とこっそり教えてくれた穏やかな人だった。綺麗に切って、丁寧に縫ってくれた。それでもなお、傷跡は残った。
　時々痛む。
　悲しみを伴う痛み方をする。

「かわいそうに。どれ、見てあげましょう。そこにねんねして。」

　春子は素直に従った。壁際の方が好きだから、寄って枕に頭を置き直す。安田はニコッとしてそばに寝そべり、春子の薄い腹を撫で続けた。冷たい手でごめんね、と彼はいつも通り言った。

　月明かりが窓から差し込んでいる。
　明るい。
　強い風は雲をまとめて持って行ってしまったようで、窓枠の影がきっぱりと壁に映った。うたた寝をする前には橙色だったのに、目まぐるしい。
　今の春子にはちょうどいいけれど。
　強い日差しがだめになった。
　暑い日がだめになった。
　月影が音もなく降る涼しい夜が精一杯。

「変な夢でした。康太さん、私に、結婚しましょうって言ったの、忘れちゃっていた……」

「いやあねえ、ボケ老人じゃない。あたし、まだオツムはギリセーフよ。そいつ、あたしじゃないんじゃない？　プロポーズ、決死の覚悟だったのよ。忘れるもんですか。散々ケンちゃんとれーくんのことロリコン呼ばわりしておいて、これだもん。春ちゃんよりロミ子ちゃんの方がちょっとだけおねえさんでしょう。すなわちトップ・オブ・ロリコンになったのよ。忘れないわよ。お陰様でロリコンヤクザ呼ばわりよ。バカどっちも違うわよ」

　春子はウフフと笑った。
　もともとおしゃべりな方ではないが、自分でも口数は減ったと思う。喋りたいことはたくさんあるのに、体がついていかない。黙って、部屋の隅で静かにしていたいと思うことが多くなった。
　代わりに、安田が少し多く喋るようになった。口も商売道具の彼だ。任せておくと楽だった。

　甘やかされてばかりいる。

「嫌な夢……悲しかった、とても。」

　安田は『うん』と頷いた。
　春ちゃん、ちょっとおいで。優しい声で続ける。撫でてもらえるに違いない、といそいそ胸の中に隠れ込んだ妻に半ば覆い被さる。
　心のグラデーションはどうあれ、やっぱり、男の人の体、男の人の骨、男の人の筋肉をしている。それで手加減をしてくれている。心地よく重い。

「まんまとひっかかったわね、春ちゃん。残念、お説教タイムよ。アナタ、無理しないってお約束は、どうなったの？」

「……。」

「それからお酒。ちょっと飲み過ぎ。あと薄着にもほどがあるわ。」

「ん……」

「変な夢も、寝ぐずりも、お約束守らないからでしょう。ン？　懲りないわね、アナタ。」

　自分が悪いと分かっているだけに、春子は何も言い返せなかった。大抵のことは大目に見てくれる安田ではあるが、あまりにも言うことを聞かないでいると、ちょっとした『痛い目』に遭わされる。
　もちろん、殴る蹴るなんてことではなく。
　春子は安田がこうして自分のことを大事に抱きかかえて軽いお説教をしたあとに『痛い目』に遭わせることを体で知っているから、緊張しつつ、期待もした。春のむくむくとした季節と同じく、春子は安田ともっとくっつきたかった。奇妙な感覚だった。

わがまま春ちゃん

　性的嗜好として、春子にはささやかな masochism があった。そのあたりの諸々を知り、理解したのも比較的遅めである。膣にペニスを挿入するスタンダードなセックスの経験相手も安田康太だけ。彼は春子のアナルにも丁寧に挿入することがある。春子はどちらも好きだ。

　いわゆる『後ろの穴』は、頭のおかしい男が最初に犯した。死ぬくらい痛かったし、怖かったし、おぞましかった。それ以上の暴力や体の死に至るような乱暴から身を守るために射精を『許した』。

　なぜ。
　どうして、私が。
　今の春子の年齢の、半分くらいの頃のことだった。
　ずっと苦しい。
　ずっと気持ちが悪い。
　安田は事情を知っている。
　春子の精神的ケアの強い意味合いを持って、二人の間では時々アナルセックスが行われた。

　安田は妻にささやかな被虐趣味があることを分かっていて、彼自身が時間をかけてその辺りを育てた節もある。少しだけ痛いことをするときも、恥ずかしがるようなことをする時も、春子のそばにいた。
　『春ちゃん、痛いの？　かわいそうに』と哀れみながら抱きしめる。
　優しく話しかけながら、膝の上でお尻をばしばし打ったり、乳首を強くつまんだり、肩に歯を立てたりする。

　痛いことはされるけれど、必ず肌をくっつけていてくれる。春子は、平手やヘアブラシで何百回と打たれ、真っ赤に腫れたお尻を突き出して四つん這いになるよう優しく命令されたとき、手を離さないでと泣きながらお願いした。安田は、その時も『大丈夫よ』と春子を励まし、すぐそばにいた。隠すものなく顕になった膣に、叩かれて興奮して、信じ難いほど濡れたそこに、彼の指が何度かぬるぬると行き来したあと容易く差し込まれた。卑猥な水音をわざと大きく立てた抽送が念入りに行われ、へたり込んだ春子の背中に触れるだけの柔らかいキスを与えた安田は、妻の腰の両側を優しく掴んで後ろから挿れた。言わずにはいられないのか、夫は『春ちゃん、かわいいね』と繰り返した。恥ずかしいし痛いのに、とても気持ちいい。諦めて、すっかり体を任せていた。そうすると、大事にしてもらえて嬉しいな、と思うだけで済む。

　春子は自分がどうして、そういったことで濡れてしまうのか分からなかった。夫に問うと、何事にも理由があるわけではないのよ、と諭されて、納得した。あれこれと試された中で、お尻を叩かれるくらいがちょうどいいことにも気づいた。スパンキング というらしいというのも、後々知った。
　今日も打たれるのだろうか。
　彼の冷たい手が熱くなるくらいに。

「……何をされるのかは分かってるみたいね、可愛いお顔しちゃってサ。」

「もうおばさんです。可愛くもない。私、40歳になるんです。」

「ハァー？！　アラ、そ〜！！　よんじゅっちゃいになるんでちゅか〜！！　お赤飯でも炊いてあげましょうね〜！！　ごめんなさいね〜！！　13年も前に1回40歳やっちゃってて！！　喧嘩売ってんのアンタ！！　なによ、時が止まるタイプのくせして。アンタなんか、ずーっと美少女よ。安達祐実も真っ青よ！！　悔しい、余計に打ってやるんだから！！」

　むぎゅ、と布団に押し付けられる。
　冷たい手のひらが春子の尻を、パチンと打った。

「あう」

　痛い。
　慌てて安田の胸に体をくっつける。
　手はひんやりしていて、ショーツを簡単にずらした。夜の空気がお尻に直接当たる感覚に肩を丸める。様子を伺うように撫でてくれているところが、彼が春子の夫である理由だった。ここでもし春子が泣き出したり、しょぼくれたりすれば、痛いことはもう起こらない。痛かったわね、ごめんね、ごめん、ごめん……とあやしてくれる。
　今日は大丈夫だ。
　伝わったらしい。ふ、と安田が笑う気配がした。

「春ちゃん、あたしのこと怒らせたわね。手で済むと思ったら大間違いよ。ちょっと、一回おっきして、はい」

　起き上がってあぐらをかく彼の前に、春子も膝を倒して座る。
　綺麗な顔の男の人だなあ。
　いつもまじまじ見てしまう。
　目元の皺が、華やかに染めたグレーの髪が、年々妖艶になっていく。

「自分で選ぶのよ。どれが1番いいか、春ちゃんが選びなさい」

　彼はベッドサイドにおいた引き出しの、1番下の段を示した。しまってあるのは、彼が春子のお尻をきつめにお仕置きするときに、時たま使う道具の類だ。例の小さなヘアブラシ、太いベルト、それから重たい木製のパドル。
　選べないでおろおろしていると、困ったちゃんね、と彼が優しく笑った。春子は小さな子どもがそうされるように抱っこしてもらい、彼と一緒に引き出しの中を覗いた。
　春子の代わりに、安田の骨ばった手が、ひとつずつ道具に触れる。はらはらしながら見つめている。どれも痛い。とても痛い。

「まあ、これかしらね」

「あ……」

　ごとっ、と禍々しい音を立てて取り出された木製のパドルに、春子の浮ついた気持ちは容易く砕かれた。
　樫のパドルだ。　

「……」

「あら、黙っちゃった。イヤ？　まあ、イヤよねえ。春ちゃん、痛くって泣いちゃったもんね。泣くだけじゃなかったわね……どうなったんだっけ？　ねえ」

　ポソポソ、頭を抱えて、耳に注ぎ込んでくる。お酒を飲み、お店でだけ煙草を喫い、歌を歌う人の低い声に春子はめっぽう弱かった。
　ぞくぞくする。
　ああー、と細くて高い声が出る。泣き声に近い。

　このパドルは試しに買っただけであって、安田が愛用しているわけではない。使ったのもほんの一回だけ、一打だけだ。
　皮膚が裂けたんじゃないかと思うくらいの激しい痛みに、春子は驚いて泣いた。あまりにも痛くてわずかに失禁もして、それに困惑して泣き喚いた。
　以来封印されている代物である。

「……思い出せない？　これで百叩きしたら、思い出せるかしらね。おいで、やってやるから」

　柄を軽く握って笑っている。
　春子はどう言い訳すれば許してもらえるか、アルコールが揺蕩いながら残る頭で一生懸命考えたが、だめだった。何も思いつかない。
　あんなので百回も叩かれたら、死んでしまう。
　痛いだけのパドル。
　春子は安田の手が好きなのに。安田の手だから痛くても気持ちいいのに。知っているくせに。
　意地悪だ。綺麗な顔で、意地悪をする。それが無性に悲しくて、声なく泣いた。熱い頬の上に涙は冷たく感じられた。
　安田が、ポイッとパドルを放り捨てる。
　ぎゅううっと抱きしめられて、息を喘がせた春子を壁際に寝かせて、彼は微笑み『うっそー』と言った。

「おバカね、なんでも本気にしちゃうんだもん。ウソウソ、あんなので打つわけないじゃない。春ちゃんのかわいいおちり、打てないわよ。そうでしょ？　こんなに、ねえ、まるまるしてて、すべすべしてて、むちむちしてて、真っ白なのに」

　春子はしょんぼりして黙っていた。安田が少し困った様子で微笑んでくれるのが申し訳ない。でも、気持ちを言葉にする体力がない。
　病は、魂から貪る。

「……もう、ねんねする？　春ちゃん。ご機嫌損ねちゃったわね。うん……？」

　髪と頭を撫でてもらって、春子は幸せだった。瞼を伏せて眠ってしまってもよかったが、乳の先、膣の入り口が落ち着かない。
　ふんわりしたブラジャーだけをつけて、自分と夫の匂いが染みついた清潔な布団にいる。
　大丈夫、ここは安全な場所だ。
　だからやっぱり、もっとしてほしい。
　期待を込めてチラッと見る。
　安田は女の気持ちの機微に聡いから、妻の頭を撫でていた手を細い首、肩、背中……と滑らせていった。無言の答えだった。腰の上にたどり着いて、するっとお尻のふくらみにのぼる。

「難しい子ねえ」

　うっとりしているところを静かに仰向けにされる。春子は大人しくしていた。安田の手が今度は腹から上に向かって、レースに隠された乳首をきゅっとつまむ。腰が少し浮く。乳房全体をよく触ってもらって気持ちよかった。時々、胸の真ん中をトントンと叩いてくれたりもした。眠ければ、寝ちゃっていいのよ、と言われているようだった。

　左胸に添えられた手は淡々と春子を慈しみ、親指の腹がレースをずらして、直接乳首の先をチリチリと撫ぜる。二人とも全く黙っているからどうにもいやらしく、少し開けている窓の外から車の音や人の話し声が遠く聞こえて恥ずかしかった。まだ、世の中は宵の口。

　腰がくっ、くっ、と浮く。
　胸の刺激だけでは達せない。眠る前に自慰で一度気をやった春子だったが、もう一度したかった。夫の隣で。

「春ちゃん、いつもみたいにしていいのよ。あたし、ここにいるからね。」

　愛する壁と、愛する夫の間に挟まれて、春子はぎゅっと目を瞑った。手を膣に伸ばす。ぬるぬるに濡れていて、完全に脱毛しているから太ももにも流れていた。こんなになっているとは思わなかった。体液を少しだけ指にまぶして、クリトリスに触れた。隠れているそれを、人差し指の先でくるくる撫で、春子は容易く上り詰めた。両脚がピンと伸びて、背中が軽く反る。浮遊感が腰を中心に起き、魚が跳ねるようにびくびく、短い感覚で震えて抜けていって、鼻から長く吸って、ふーっと吐いた。気持ち良かった。セックスでは得られない強い快さが頭のモヤを払う。春子は満足して、安田の体にくっついた。ずっと冷たい手が髪や背中を撫でる。

　彼の股間の様子を膝頭でそっと伺う。軽く勃起して、寝巻きの薄い布地が持ち上がっていた。挿入自体の回数も少なくなった。彼は、自分の胸の中で妻が気持ちよさそうにしている姿を見るだけで充足するようになってきたと言うが、春子は今日、これを挿れてほしい。わがままを通したい。

「康太さん……」

「なあに？」

「ちょっとでいいから……ちょっとだけ、挿れてくれませんか……」

　ニヤッ、と不敵に彼の口角が上がる。

「わがまま春ちゃんね、1人で楽しそうにしちゃって。」

　よく抱きしめて撫でながら言うから怖くない。そのうち彼の方が『まあ敵いませんわな』とボソッとつぶやき、春子の好きな、やや支配的なキスをした。
　彼の舌の動きに合わせて、春子も同じように追いかけると褒めてもらえるのだ。

「いい子ね、こればっかりはいつも素直で。」

　こんなふうに。

　達したばかりの体は力が抜け、緊張がなくなっている。
　ベッドの真ん中に寝かされた春子はきちんと枕の上に頭を置いて、覆い被さる安田を見ていた。蒼々と月光が明るく、部屋全体が青っぽく暗く、夫の端正な顔立ちを照らすには最も相応しい。
　じーっと見つめる春子を、彼もじーっと見つめて『なによ、赤ちゃんみたいに』と呆れた様子で笑った。
　挿入は穏やかで、ぬるっとした、と思った時には入りきっていた。おなかの中にちょうどよく収まるこの器官が好きだ。
　春子は安心して、にこっとした。
　鋭敏になっている肌に夫の手は冷たすぎたが、体はしっかり温かいから、総合的に具合が良い。すぐには動かず、というよりも、安田自身妻の体の中を揺さぶるつもりはそこまでないのかもしれなかった。

「春ちゃんはあったかくていいわね。温泉みたい。」

　膣の中を触ったことがある。
　ふくふく、ふわふわしている。女性に生まれると、指が届く範囲のことまでしか分からないが、男性は極めて敏感な器官で感知できるわけだからうらやましい。これは、気持ちいいだろうな。春子は自分の膣壁のふわふわした感じを思い出して、改めて納得した。次は男性もいいな、とも少し思った。男の人たちがどんな気持ちで、女の人に優しく接するのか知りたかった。
　自分より身体的に脆いから優しいのか、それとも自分より小さいから優しいのか、赤ちゃんを産むこともある生き物だから優しいのか、大事だから優しいのか、男の人が女の人に言う『大事』は、どれくらいの深さや重さがあるものなのか。

　私のこと、愛していますか？　と尋ねた。　
　彼は少しの間黙って、愛してるっていうか、大事なのよね、春ちゃんのこと、と真剣に答えた。
　腰がゆるゆる動いて、春子は『あっ』と思った。

　確か夢の中でも、『あっ』と思った。
　夢の姿を思い出した気がした。

春の月

　森閑としている。
　真夜中だ、きっと。私、夜中に起きたんだ。
　寒い。

　春子は曖昧な意識で、布団の温もりの中にいる。夫の姿が無いことに気づく。不安になって布団をどけると、春子のショーツとブラジャーが出てきた。とりあえず身につけながら安田を探す。よく晴れた夜だ。常夜灯すらいらない。
　風が流れ込んでくる。
　どこかの部屋の窓が開いている。寝室ではない。短い廊下に出ると、風の気配はやや強くなった。画材の匂いがする。春子の仕事部屋の窓が、開いている。

「康太さん」

「ン？　……うわっ！　アンタなんつーカッコしてんの！　おバカッ！　着なさいこれ！　ちょっともうホンットにもうアンタ……春ちゃん、服は着なさい、風邪引くから。もったいないし」

「ごめんなさい」

　ベランダに出て、グラスを片手に月を眺めていた夫が押し付けるカーディガンを羽織り、前を合わせる。いつも柔軟剤以外の『ちょっとだけのいい匂い』がする。体温が残っていて、あたたかくて気持ちいい。

「起きたら、康太さんがいなかったんです。」

「アラ、寂しかった？　ごめんね、おいぼれだからちょっと目が覚めちゃったの。窓が開いててね……出てみたら、まあお月様が綺麗でね。桜は結構散っちゃったけど……。葉桜も健気でイイわ。一杯やったら、また寝ようと思ってたのよ。」

　安田が手にしているのは江戸切子のグラスだ。口のところが深い瑠璃色で、底に向かって徐々に濃度を強くする飴色の、どっしりした美しいグラス。

　春子がキャンバスに描いたグラスだ。

　彼のすっきりした手が重厚感のあるグラスを持つ様子があんまり綺麗だから、描いておこうと思ったのだ。
　少し前に、親しい人々で夕暮れ時に集まり、ささやかにお花見をした。桜はふさふさと豊かで、ほのかに空を照らしているようにも見えた。花明かりって言うのよ、と夫が教えてくれた。菜の花の匂いを運ぶ風は静かで、紺色に滲む東の空で、ひっそりと月は浮かんでいた。

　その空の暮色を透明なグラスにそのまま写し取った逸品を、春子も甚く気に入っていた。きれい、とニコニコ眺めていると、随分年上の夫は有無を言わさず春子にグラスを譲った。以来、春子が時々お酒を飲む時に持ち出している。今日もこのグラスで梅酒を飲み、それで酔っ払って妙な夢を見て叱られた次第である。

　夢の中では不名誉な役割だった塩崎氏もお花見に合流して、確かにお孫さん、小さな帽子をかぶった、小さな赤ちゃんを抱っこしていた。
　かわいい、女の子の赤ちゃん。お名前は『さくら』ちゃんだと聞いた。すべすべのほっぺが桜色の、まるまるしたさくらちゃん。

　抱っこさせてもらった。
　夢のように軽かった。
　愛想の良い子で人見知りをせず、大人たち全員にちやほやされていて、その時の空気や景色全部が、春子にとっての幸福そのものだった。戦争をしないと決めた国に生まれた、小さな赤ちゃん。

　抱っこは、娘がいる葵と鳴川氏はさすがに上手く、夫婦は『ああ、懐かしい、赤ちゃんだ！』と喜び、路海と自分はおっかなびっくり、しかし何故か最終的に吉岡氏の抱っこで一番落ち着き、すやすやと寝ていた。同じ生き物とは思えないくらいの大きさの違いに、安田が笑い転げて何枚も写真を撮っていた。

　彼はみんなのことが大好きで、たくさん写真を撮る。でも、自分が撮られるのは苦手で、馬鹿野郎おまえも入れよ遺影にしようぜと幼馴染二人の太い腕に引っ張り込まれた彼を、小さなさくらちゃんに怯える彼を、面白がって春子が撮った。二人に挟まれて、少し困った顔をして、嬉しそうに微笑む美しい彼。

　本当は物静かで、世の不幸全てにひとつずつ傷つくような優しい人で、私のことを春ちゃんと呼ぶ人。
　春に生まれた人。
　長いこと、三月生まれだとしか教えてもらえなかった。
　結婚する時やっと知った。
　彼の誕生日は、三月のあの日だった。
　春子の人生の根幹に潜み、唸り続けるあの日に、彼は生まれた。
　でも春子は彼のことが大事だから、怯まなかった。立ち向かって、お誕生日おめでとう、と言った。その日に贈った金の指輪を、彼は結婚指輪と重ねて、いつもつけている。

「お花見……おはなみ、たのしかったですね」

　泣けて困った。
　おかしいなあ、更年期はまだのはずなのに。

「楽しかったわねえ。またしましょうね。ね、楽しかったんだから、そんなに泣かなくったって、いいじゃない。泣いてたら、もったいないわよ。お月様見ときなさいよ、綺麗よ。ほら。」

　春子を抱き寄せて促す。
　眩い月だった。
　ぴかぴかの満月だ。午睡の頃には、あんなにひっそりと病んでいたのに、煌々と光り輝いている。光の輪が真円に広がって夜空を淡くしている。

「あたし、春の月が好きなのよ。花もいっぱい咲く時期だしさ」

　シンプルでいい。
　本当にそうなのだろう。
　はた、と何かに気づいた横顔になる。

「アラ、ねえ、ヤダ、女の人はいいわねえ〜。月も、花も女性名詞だわ。あたし、フランス語なんかさっぱり忘れたと思ってたけど、急に思い出したわ、死ぬのかしら、やっぱ、あれかしらねえ、綺麗だからかしらね。」

　春子は笑った。

「……それですと、春は男性名詞ですよ。春の月、ちょうどいいですね。」

「んまあ〜！！　いやあねえ、いつの間にそんな返し覚えてきたのよ、おねえさんになったわね。春ちゃんのご両親とあたしの育て方がよかったんだわ。」

　あたしってば子育て上手。言いながら一口酒を含む。彼が作ったおいしい梅酒だ。春子も飲みたくなって、一口ください、と背の高い彼にねだった。

「飲み過ぎって怒られたのはどこの子？　めっ」

「ひとくちだけ……」

「……」

「今度は、良い夢を見たいんです」

　ため息と共に差し出されたグラスの中で、金色の液体が揺れながら光っている。春子は喜んで、一口だけ貰った。甘くておいしい。いつもの、魔法の水の一口目の味がした。たくさん眠ったから、きっとリセットされたのだ。よかった。

「私、お昼にも夢を見ました」

「良い夢だったの？」

「……あのう、良い夢だったと思います」

　『あっ』と思って起きた夢だ。
　春の午睡にふさわしい、少し汗をかくくらい、華やかな夢だった。
　きっと、夫がいた。

　夜に生きて長い安田が艶っぽく笑って、グラスの中身を空ける。
　春子には無い喉仏が動くのを見つめていた。

「教えて、春ちゃん。あたしは居た？」

　春子は頷いた。
　安田康太がにっこりして、じゃあ良い夢に決まってるわよ、と胸を張り、春子の肩をそっと抱いて部屋に戻した。春の月に掛かろうとする雲を吹き飛ばす風は、冷えていた。

　ベッドに入る前に足にシャワーをかけて洗った。
　安田はわざわざしゃがみ込んで、妻の小さな爪先を、丁寧に拭った。
　二人は黙っていた。
　本当は二人とも同じ夢を見ていて、その入り口に、一緒にいるのかもしれないと思うくらい静かだった。手を繋いで寝室に入った。

　カーテンを閉めようとする夫に、そのままにして、と春子はお願いした。安田は優しい目元をして少し振り返り、妻の願い事に従った。
　遮ってしまってはいけない。
　春子は、彼に覚えていて欲しかった。

　綺麗な春の月の光に照らされる自分の体を、結婚指輪を、春子のことを、夫には、夢の中でも明らかであるくらい、よく覚えていて欲しかったから。

　透明な窓の外で、春の月が冴え冴えと輝いている。

【おしまい】