「芸術」という身体のひみつ
踊ってきました。昨晩。UrBANGUILD。Duduさん主催の「幽けきもの」というイベントでした。
私は桂勘さん振り付けの3人の群舞を踊らせていただきました。
見てくださった方(複数)からいただいたコメントは、いがらっしは異質だというものでした。二人に比べて太めであるということを差し引いたとしても、二人はバレエの身体であるということを差し引いたにしても、このコメントには刺さるものがあります。
というのは、今年に入ってから、いや、去年の秋以降に、もっというと去年の10月に身体が硬直し、3週間かけて解凍させた以降にいただいたコメントは、ほぼすべてこれと同じだからです。
しかも、いがらっしがしているのは「ダンスとは別のものなのではないか」というコメントも複数回いただいています。面白いほど、関連のない場所で関連のない方々から同じコメントをいただきます。
考え込む。
考え込みっぱなし。
考えているうちに、気付いたら動いている。…これは踊りですか?
話が飛びますが。
この数週間、芸術家にお会いする機会がたくさんありました。ここでいう「芸術家」という言葉は、「お芸術家」とか「芸術家先生」という意味ではありません。
お会いした方の中の一人がおっしゃった言葉を借りると「そうしていないといられない人」です。きっと、いがらっしもそういう類なのです。すき、嫌い、そうしたい、したくない、ではなく、そうなってしまう、そうするしかない。
お会いした芸術家の方々は、いわゆる普通に安定した生活を営んでいる大多数の方々、いわゆる一般の方々より、ずっと刺激的で楽しそうな人生を歩んでいらっしゃる…ように見えます。うらやましいほどに。
でも、よぅーく見ると、おっそろしいほどに、ぼっかりと底なしの大きな穴を内包している。こう書くことが失礼でないことを祈りつつ、書いております。
いがらっしは時折、最近あまりみなくなりましたが、ザッとモノクロのビジョンが見えることがあるのですが――詳しく書くと長くなりますし、以前別のところに書いたことがあるので省略しますが――そのモノクロのビジョンの中心にはずるずると世界が流れ落ち込んでいく大きな穴が開いているんです。
きっと皆さんもこういうような穴があるのじゃないかという気がします。
おそらく、「一般人」がこの穴を持っていないわけじゃない。でも、この穴を無視したり、趣味や飲み会や性行動、運が良ければ、恵まれた家庭生活で埋められるような気がする方々なのではないでしょうか。
またある方の言葉を借ります。「つらいことの多い子供は気の毒だ。大人ならコーヒーやアルコールなどの化学物質で気を紛らすことができるけれども、子供はそれができない」いがらっし応えて「そうでしょうか。子供のほうが紛らせる方法が多いと思いますけど…」。
私はその時、自分がなぜそのように発言したのかよくわかっていませんでした。
でも、この週数間の一連の経験をもって鑑みるに、私は子供にとっての遊びについて言及していたのだと思います。そして、大人になると、その遊びはいわゆる芸術活動・創造活動という不適切な語で言及されるものになるのではないでしょうか。(適切な語が思いつかないのでこの語を使いますが)芸術活動や創造活動は、コーヒーやアルコールなどの化学物質以上に身体の中のケミカルの状態を変えてくれる感覚があります。
『梁塵秘抄』に「遊びをせんとやうまれけん」とあります。遊びとしかくくれないような「生産的でない」活動に、私たちの身体の不思議さ、自分が生まれ出た自分の世界のひみつがある、いや、ヒミツそのものなのではないでしょうか。