#今年のベスト音楽 を選ぶのをやめた
毎年なんとなく選んでTwitterやブログなんかで発表している“今年のベスト楽曲/アルバム”を選ぶのをやめた。元々選んでいない年もあったり、良作揃いで決めあぐねているうちに年を跨いでしまったりすることも少なくなかったけれど、2022年分から本格的にやめた。自分も曲がりなりにも音楽ライターとしての活動を執筆業の主としているわけだし、本当はなにかしらのアクションをすべきなのだろうけれど、これからは年末や年始だからといって、特別に自分が聴いてきた(観てきた)作品などを選別するようなことはしないことにしようと思っている。
(※一昨年開設してあんまり更新されていないブログはこれ↑)
理由としては、僕自身の音楽の趣味が幅広過ぎる……というよりは、常にどっちらけているから、というのが大きい。好きなミュージシャンをメジャーどころから挙げると、KEYTALK、Mrs. GREEN APPLE、LACCO TOWER、ビレッジマンズストア、藤井風、キタニタツヤ、ちょっとマニアックなところを言うと一番長く応援しているミュージシャンがPlastic Treeと中田裕二……同世代前後ぐらいの邦楽好きの方なら統一感のなさをわかってくれるはずだ。共通点といえば「バンドが好きなのかな」「歌ものが好きなのかな」ぐらいなもんである。何故こんなことになっているのか己を顧みてみると、音楽の趣味において、自分はかなり気分屋であることがわかった。友人に薦められて半年前に聴いたとある曲がその時はそれほど刺さらなかったとしても、半年後になんとなく聴き直してみたらはちゃめちゃに感動して以来そのミュージシャンの大ファンになってしまったり、なんてことがザラにある。さきほど挙げたミュージシャンの中ではビレッジマンズストアなど、4年ほどにわかファンを続けた挙句にコロナ禍の配信ライブを全通するオタクになっていた。
上半期はシューゲイザーばかり聴いていたのに、下半期はゴリゴリのギターロックの耳になっている。数か月前までYouTubeのおすすめを片っ端から聴いてみる生活をしていたのに、今は決まったミュージシャンの曲ばかり聴いている。そんな性質のせいで、アンテナの感度にブレが生じまくるタイプの音楽ライターが爆誕した。この数年で音楽シーンは、僕みたいな不埒なライターでもわかるぐらいに変容を遂げている。流行はフェスやライブハウスではなくサブスクから広がるし、YouTubeでMVがバズるよりもTikTokで曲がひとり歩きすることの方が増えた。肉体をぶつけてくるバンド音楽よりも、姿を見せないバーチャルなシンガーが台頭してきた。だから常に新しい方向へアンテナを張っていないといけないはずなのに、気分屋な僕は常に「そういう気分」ではいられない。人間に脳味噌がひとつしかなく、さらに感情や心、と呼ばれるような仕組みがある以上、これはどうしようもないことだ。
そもそもがおそらくハマると偏執的になりがちな性格なのだろう、音楽以外のジャンルに突然ハマり込んで、さきほど挙げたような好きなミュージシャンの動向すら追いきれなくなってしまう時期もある。昨年は訳あって昔好きだったオカルトやアングラ系のサブカルチャーの知識を改めて深めたいと思い、ここ最近触れる機会が減っていた紙の本を読み漁ったり、YouTubeで知ったその界隈のYouTuberにハマりこんでトークイベントなどに足を運んだりなどもした。結果的にそれらの経験や知識も執筆に活かせれば万々歳だと思っている持続可能性の高い性格なわけだが、それにしてもその間は聴きたいと思ったCDや配信音源などもチェックする頻度が下がってしまう。無論そんな期間の僕の脳に新しい音楽の扉を開く余裕はほぼないと言っていい。そのときの僕は好奇心にのみ突き動かされ、叡智の森をさまよう亡霊だ。亡霊が無理して流行りに乗るべく森の外の話を文章にしても、伝わるひとには伝わってしまう。決して良い記事にはならない。そしてその“伝わるひと”は往々にして、そのとき記事内で無理して取り扱ったミュージシャンのビッグファンにほかならない。
年の暮れになると、音楽配信アプリから『今年あなたがたくさん聴いた音楽』を数値化した通知が届く。ミュージシャン単位、楽曲単位にわけられ、その年の自分の音楽的趣味嗜好を網羅できるデータがカジュアルに手元に届く。それをSNSで拡散すれば、誰でもその年の“今年のベスト楽曲/アルバム”を発表することが可能になった。
僕の手元にも例外なくそれが届いたわけだが、どうしたことか、僕が2022年に一番聴いた楽曲はここ数年推しに推しているインディーバンドのDannie Mayのシングル『黄ノ歌』だったそうだが、ミュージシャン単位では一番聴いていたのは藤井風だった。しかも曲単位での『2022年一番聴いた音楽』トップ3には、藤井風は1曲もランクインしていない。はにゃ???
おそらくだが、2022年の僕は藤井風の曲をまんべんなく――それはもう、みんな知ってるシングル曲からアルバムの曲、話題になった『死ぬのがいいわ』まで――どれか1曲に偏ることなく聴きまくっていたんだろう。その傍らで曲単位での『たくさん聴いた曲』たちもたくさん聴いていたのだ。だからこういう現象が起きたのではないか。
その年にたくさん聴いた音楽はそりゃあもう印象に残るし、ファーストインプレッションで印象に残らないと(この曲好き!! と思えないと)何度も聴こうとは思わない。だからアプリが教えてくれるランキングにランクインしている曲は確かに僕らにとってその年を表すに相応しい曲であることは間違いないだろう。しかし、だ。
正直なところ、たとえ大好きだと感じた曲だからといって、そう何回も何回も何万回も聴くとは限らなくないか?
noteで『#音楽』のついている記事などを検索してしまう音楽好きの諸君はちょっと胸に手を当てて考えてみてほしい。あなたたちには、日頃ヘビーローテはしなくても、思い入れの強い曲というのがあるはずだ。つらかった時期に心の支えになった曲、失恋に寄り添ってくれた曲、好きなバンドが解散したり、メンバーが脱退する時に最後の作品としてリリースされた曲……。それらは確かに大好きな曲としてあなたたちの心に存在しているはずだが、おいそれとは聴けない、聴いたが最後、その時の感情をまざまざと思い出してしまうトリガーとして機能してしまうかもしれない。
別に具体的な想い出とともに存在しない曲であっても、「この曲、今年初めて聴いてすごく刺さったんだけど、聴いてるとちょっと重たい気分になっちゃうんだよね……」という曲はあるはずだ。そんな曲との出会いが2022年にあったとして、それは再生数という数字には現れないのだ。だったらそれは、『2022年を代表する曲』に選出されないというのか?
音楽に限らず、映画や小説、漫画やアニメやドラマであったとしても、その作品への思い入れは必ずしも数字にはあらわれない。そして、そう簡単に「これとこれとこれ!」とその時の一存で選出することも難しいものだ(現に僕も過去“今年のベスト楽曲”を選び終えた後に「あの曲も入れれば良かった……」と少し後悔したことがある)。世間の動向を知る上で再生数ランキングなんかを見ることは大変参考になるし、著名な批評家の方々が「今年はこれが凄かった」「今年はこれが“来る”ぞ」と選んだ作品をチェックするのも、新しい作品を知る上では参考になるだろう。
でも僕個人的には、その年に自分が感じた夥しい数の感動から、無理矢理数点を選ぶようなことはしないことにした。今まで綴ってきたような理由で、僕は冷静な“批評”と言われるようなことができない物書きであることは伝わっただろう。身の程をわきまえ、そのとき一瞬一瞬の琴線を振るわされたものを、少しでも多くの誰かと共有したいと思う。今年の終わりには、もしかしたら今の僕には想像もつかないようなものを好きになっているかもしれないしね。